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ゲッセマネの園での苦悩(2)

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8. 午前0時~午前1時 ゲッセマネの園での苦悩 (2)

【聖書箇所】
マタイの福音書26章36~46節
マルコの福音書14章32~42節
ルカの福音書22章39~46節

ベレーシート

  • イェシュアがわざわざ三人の弟子たち(ぺテロ、ヤコブ、ヨハネ)を連れてゲッセマネに来たその目的は、第一に、そのところでイェシュアがいつもとは異なる特別な祈りを、夜を徹して祈ったという事実を彼らに記憶させるためであったと考えられます。また同時に、弟子たちにも自分と共に祈ってほしいという思いがイェシュアにあったことも確かです。マタイとマルコは、イェシュアが彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」と命じたことを記していますが、ルカによれば「誘惑に陥らないように、祈っていなさい。」とあります。イェシュアが祈るために彼らを連れて来た目的が、ただ「すわっていなさい」というのは不自然です。「すわっていなさい」とは「祈っていなさい」と同義であることをルカは補足したと思われます。
  • ちなみに、「すわる」という言葉をヘブル語に戻すと「ヤーシャブ」(יָשַׁב)となります。「ヤーシャブ」は単に座るという意味だけでなく、神とのかかわりにおける語彙として用いられる場合、主のうちに「とどまる」、主とともに「住む」という重要な意味を持っています。特にマタイは「わたしといっしょに目をさましていなさい」(26:38, 40)というフレーズでそのことを表しています。「祈る」という語彙がなくとも、「ヤーシャブ」の真意がそこにあります。御子イェシュアの言動はすべて「ヤーシャブ」からはじまっているのです。
  • 今回の瞑想の着目点は、ルカの福音書22章45~46節です。

    【新改訳改訂第3版】

    45 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。
    46 それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」


1. イェシュアの戦いの勝敗はゲッセマネにおいてついた

  • 上記の箇所はすでにイェシュアがゲッセマネにおける壮絶な祈りを終えた後の光景です。45節ではイェシュアは祈りの状態から「立ち上がった」ことが記されていますが、弟子たちは「眠り続けている」のです。そんな弟子たちに対して、イェシュアは「起きて」「祈っていなさい」と命じています。
  • 45節の「立ち上がり」(原文は「立ち上がった」「起き上がった」というアオリストの分詞形)も、46節の「起きて」(原文は「起き上がって」というアオリスト)も、同様に「アニステーミ」(ἀνίστημι)という復活用語が使われています。イェシュアの「立ち上がり」はすでにこの時、祈りによって勝利を得たことを意味します。その証拠にこのあとのイェシュアの姿を見るなら、微塵もぶれていません。真っ直ぐに十字架に向かって行くのです。勝敗はこのゲッセマネでついたという感じです。
  • 余談ですが、メル・ギブソンの『パッション』では、ゲッセマネでの祈りの最後でイェシュアが蛇の頭を踏み砕くシーンを入れています。
  • しかし弟子たちの戦いはこれからです。眠りの状態から目を覚まして、「立ち上がり」「祈り続けなさい」とイェシュアは命じています。まさにそれはイェシュアの復活後の弟子たちの姿を予告しているかのようです。

2. 御使いによって「力づけられた」イェシュア

ゲッセマネの祈り(3).JPG
  • ゲッセマネの場面において、ルカだけが記している「御使い」の顕現です。ルカの福音書では「祈り」と「御使い」が他の福音書に比べて目立っているのが特徴です。「祈り」は26回、「御使い」は23回記されています。
  • ゲッセマネにおいて御使いの助けがなければ、勝敗をつけることは難しかったかもしれません。なぜなら、私たちと同じ肉のからだを持つ、人となられたイェシュアだったからです。しかし、ここで御使いがイェシュアを「力づけた」のです。この「力づけた」という言葉は、ペテロが立ち直ったら「兄弟たちを力づける」と語ったイェシュアのことばと同じです。ヘブル語では「ハーザク」(חָזַק)の強意形ピエル態の「ハッゼーク」(חַזֵק)です。


2015.3.15


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