ソロモン以降の王による礼拝改革
歴史書(2)の目次
D. モーセの幕屋とダビデの幕屋の綜合としてのソロモン神殿の礼拝神学
D-3 ソロモン以降の王による礼拝改革と賛美への態度
前へ| 次へ
はじめに
- 歴代誌第二に記されているソロモン王以降の時代においては、主への礼拝-賛美と祈りがしばしば外敵との戦いにおいてきわめて強力な武器して用いられている。これは今日、霊的戦いにおいてもこの原則は変わらない。特に賛美は敵に対する勝利の宣言であり、主の力を解き放ち、敵に対する混乱を引き起こす強力な神の武器である。そして多くの霊的祝福がもたらされている(例えば、安息、解放、喜び、自由、霊的開眼、いやし、否定的な思いからの勝利、きよめ、信仰の高揚、従順、一致・・等)。
(1) アビヤ王の時代・・対イスラエルのヤロブアム (Ⅱ13章)
①アビヤはイスラエルのヤロブアムとの戦いにおいて、「主が私たちの神である」ことを宣言し、賛美によってユダが勝利をもたらしたことが評価されている。
②ユダの勢力はイスラエルの勢力に比べて半分であったが、一心に「主を呼び求め、祭司たちはラッパを吹き鳴らし」「ユダの人々がときの声をあげたとき、神はヤロブアムと全イスラエルを打ち破られた」(14~15節)。「ときの声を上げる(Shout)」とは、信仰による勝利の宣言である。ヨシュア記6章参照。
(2) アサ王の時代・・対クシュ人〔エチオピア人〕 (Ⅱ14章~17章)
①クシュ人ゼラフの大軍が押し寄せてきたとき、アサ王は主に祈り叫び求めた。「私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍(2倍の勢力)に当たります。主よ。あなたは私たちの神です。人間にすぎない者に、あなたに並ぶようなことはできないようにしてください。」と祈ると、敵は打ち破られた。アサに対する評価は、祈りによって勝利をもたらしたことである。
②アサ王は神の霊に満たされたアザルヤの勧告に従って、「主の祭壇を新しく」し、新たな神礼拝に専心するようになった。新しい礼拝では、多くのいけにえがささげられ、偶像礼拝のみならず、礼拝への無関心をも罪とするほど徹底的に霊的改革を断行した。また楽器を伴い、大声を上げ、喜び叫んで主を賛美し、主に誓いを立てた。このことによって主は彼らにご自身を示された。こうして、ユダ王国だけでなく北王国からも真の神を求める人々が集まってきた。
③生きた賛美礼拝が復活して主との新たな誓いがなされたことにより、主の臨在が現わされ、周囲の敵から悩まされることのない「安息」を人々は楽しんだのである。晩年は礼拝者として問題あり。アラムにより頼んだ代償は大きい。
(3) ヨシャパテ王の時代・・・対モアブ人とアモン人の連合軍に対して (Ⅱ17章~20章)
①ヨシャパテ王は歴代の王の中ではヒゼキヤ王に次ぐ評価を得ている。彼は偶像を撤去し、レビ人を用いて町々を巡回させ、民に律法の教育を徹底させた。
②ヨシャパテのもう一つの評価は、賛美による勝利である。おびただしい大軍が攻めてくるという国家危急の折、彼はひたすら主を求め、全国にその危機を伝え、断食を布告した。人々は王の呼びかけに集まってきた。このときアサフ族のレビ人ヤハジエルは預言して「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。この戦いは主の戦いである。」「攻め上れ(立ち向かえ)。出陣せよ。」「主はともにいる。」「しっかり立って動かずにいよ。主の救いを見よ。」と励ました。
③ヨシャパテは地にひれ伏して主を礼拝し、レビ人たちは大声で主を賛美した。ヨシャパテは翌日の出陣に際して、聖なる装いをした聖歌隊を任命した。彼らが武装した者の前を進み、「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」と喜びの声、賛美の声を上げ始めたとき、主は伏兵(おそらく御使いたち)を設け襲わせた。すると敵は混乱し、同士討ちとなり、互に滅ぼしあった。これによって三日も必要とするほどの戦利品がもたらされた。
⇒私たちが霊的な武器(賛美と祈り)を用いる時、御使いが遣わされる。詩篇32篇、詩篇91篇参照。④ヨシャパテは、人間的には不可能と思える状況の中で、へりくだり、ひたすら主に目を注いだ(20章12節)。主への<祈りと賛美>によって神の力が解き放たれたのである。
⑤戦いの谷はベラカ(祝福の谷、賛美の谷)と変わった。人々は戦勝地で主をほめたたえただけでなく、エルサレムに帰っても主の宮で賛美した。戦いの前も、戦いの最中も、また戦いの後にも賛美し続ける習慣を身につけるべきことを教えられる。
⑥「このようなわけで、ヨシャパテの治世は平穏であった。彼の神は、周囲の者から守って、彼に安息を与えられた。」(20章30節)
(4) ヒゼキヤ王の時代・・対アハズ(ヒゼキヤの父)の悪政に対して(Ⅱ29章~32章,イザヤ36章~39章)
①〔ヒゼキヤが王として最初に行なったこと〕
それは、閉鎖されていた主の宮の戸を開き、ダビデ時代に制定された礼拝を回復したことである。「彼はすべて父祖ダビデが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった」(Ⅱ歴29章3節)、これがヒゼキヤに対する神の評価であった。②〔助言者イザヤの存在〕
彼の父アハズの治世に偶像礼拝によって見る影もなく汚された神殿は、ヒゼキヤによって見事に回復された。決して良い家庭環境の中にいたとはいえない若干25歳のヒゼキヤがこのような改革を行なうことができたのは、その背後に預言者イザヤという優れた助言者がいたからである。一国の指導者が、神を恐れる預言者を自分の助言者として傍らに持つことができたことが、彼をして祝福された第一の要因といえる。上に立つ人の多くは、自分に助言する者の声を謙虚に聞くことが苦手であり、嫌うものである。しかしヒゼキヤは違った。③〔ヒゼキヤの父アハズの取った政策のツケ〕
アハズの時代はユダにとって国際情勢はすこぶる不安定で、特にアッシリヤの脅威がユダの周囲の諸国をして軍事同盟を結ばせた、しかしユダのアハズはこの同盟軍に加わらずに、なんとアッシリヤに援助を求めたのである。その援助を申し出る誠意を現わすために、神殿と王宮の宝物蔵をカラにしてしまったのである。それゆえ、神から遣わされた預言者イザヤの厳しい警告は聞くはずもなかった。確かに、ユダはアハズがとった外交政策のゆえに、一時的には救われたかのように見えた。しかしひとたびアッシリヤに臣従した代価はあまりに高かった。それはアッシリヤの宗教を受け入れざるを得なくなったことである。礼拝を司る祭司やレビ人たちの多くがリストラされた。その結果、アハズの治世下にユダの国民の宗教的道徳的レベルはみるみる低下して行った。④〔今日の私たちへの教訓〕
戦後、日本は豊かさをもたらす「繁栄という名の偶像」にひざをかがめてきた。確かに外見上は豊かになったかに見える。しかしそのツケはあまりに高い。今後、そのツケの代償を支払わされる時代となっていく。繁栄という名の偶像の神を拝んだ結果して、日本に今、神のさばきが下ろうとしている。私たちには今、日本のために、主の前にへりくだって、真剣なとりなしの祈りをさげなければならない。この日本の民がいやされ、救われるために。⑤〔礼拝よりも、礼拝者の聖別の重要性〕
ヒゼキヤ王は礼拝を司るレビ人や祭司たちに「自分自身を聖別する」よう命じた。彼らは主の宮を聖別する前に、まず自分自身を聖別しなければならなかった。聖別するとは、はっきりと神が自分をある目的のために選ばれ、召してくださったと自覚することである。そしてそれにふさわしい者となることを意味する。
Ⅱコリント6章にははっきりと神の民がこの世とどのようなかかわりをもつべきかが記されている。それによれば、「つりあわぬくびき(この世の価値観、流れ、等)をいっしょにつけてはならない」ということである。もしそうするならば、「わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなだかたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる」と約束されている。また第二テモテでも、「だれでも自分自身をきよめて、これらのこと(不義)を離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです」(2章20~21節)と言われている。今日、教会がイエスが言われるように「世の光、地の塩」となるためには、クリスチャンのこの世に対する明確な聖別が必要である。⑥〔悔い改めのメッセージと過越の祭り〕
Ⅱ歴代誌30章1節~12節において、ヒゼキヤ王は全イスラエルに使いを遣わし、本来一つであった神の民が一体となって行なう過越の祭りを行なうことを呼びかけた。この祭りはソロモン以降なされていなかったのである。ヒゼキヤが礼拝改革においてこの過越の祭りを行なおうとした意義はいったい何だったのか。ヒゼキヤ王が全イスラエルに対して過越の祭りをすることを呼びかけたときのメッセージの中心は、「主に立ち返りなさい」という悔い改めの勧告であった。悔い改めとは、心の目が開かれて、神からの正しい知恵が与えられて、自己中心の生き方から神中心の生き方へと変わることである。もしそのような悔い改めをするならば、「主は憐れみをもって帰ってきてくださる」また「捕囚とされた人々も帰ってくる」とヒゼキヤ王は訴えた。
「過越の祭り」は単なるお祭りではなく、主に立ち返る悔い改めの心の表現であり、主に服従して、主に仕えようとする献身の心の表われを意味する。南ユダ王国の人々はこのヒゼキヤのメッセージを信仰の従順をもって応答したが、北イスラエル王国の人々には、中にはへりくだって応答した者もいたが、多くは嘲笑をもって迎えられた。いつの時代にも、霊的刷新(霊的改革)がなされるところでは、こうした拒否的反応がある。
⑧〔すべてのパン種を取り除く〕
出エジプトを記念するこの過越に続いて7日間「種を入れないパンの祭り」が行なわれた。「種を入れないパン」とは「パン種の入っていないパン」という意味である。聖書においては「パン種」は罪の象徴である。普通、新しいパン粉にパン種を入れてこねる。そしてその中の一部を取って置いて新たなパン粉にそれを混ぜるというふうに、共通のパン種でつながっている。同様に、人間もみな最初の人アダムの罪性を受け継いでいる。人はしばしば悪い行いをしたとき、「私も人間に過ぎないので」という言い訳をするが、正にこの「人間に過ぎない」ということこそ人間のうちにあるパン種なのである。イスラエルの民にとって、パン種をすべて取り除くことが、過越の祭りをする上で非常に重要であった。それは、主の御前に新しい者として歩むために、罪の悪循環を断ち切る決断を意味した。つまり心と生活を一新させたのである。彼らは救われるためにパン種を取り除いたのではなく、主によって救われたゆえに、それにふさわしい者となるためにパン種をすべて取り除いたのである。人々は喜びをもって、あと7日間祭りを続行したとある。