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パウロの挨拶(キリスト教的挨拶の考案)


1. パウロの挨拶(キリスト教的挨拶の考案)

【聖書箇所】1章1~5節

■ 1章1節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章1節
人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロと、

●パウロという人物がいかなる者であるかが紹介されています。「使徒とされたパウロ」と訳されていますが、原文は「パウロ・使徒」のみです。これは「パウロ」(「パウロス」Παῦλος)と「使徒」(「アポストロス」ἀπόστολος)が同格であるという意味です。「イエス・キリスト」が「イエス」(「イエスース」 Ἰησοῦς)と「キリスト」(「クリストス」Χριστός)とが同格であるのと同じです。

●特に、「パウロ・使徒」に付された形容詞的修飾句は注目すべきです。その説明は「・・ではなく、・・でもなく・・」という二重否定で始まっています。差出人についての説明が、このような二重否定で始められているのは異例というべきです。「人から(「アポ」ἀπό)ではなく(οὐκ(ウーク))、人を通して(「ディア」διά)でもなく(οὐδὲ(ウーデ))」、むしろ(「アッラ」ἀλλὰ)、~と~を通して(διὰ)、使徒とされたパウロとなっています。ἀπόδιάも、後続する語が母音で始まるため、ἀπδιと省略されます。前置詞「アポ」(ἀπό)は事柄の起源を示すのに用いられ、ここではパウロがだれから権威などが委任されて遣わされたのかを示しています。前置詞「ディア」(διά)は、媒介・手段を示し、パウロの使徒職がいかなる媒体を通して与えられているかを示しています。彼は「人々(複数)からでもなく」、「人(単数)からでもなく」、「イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって」それが与えられたのだと説明しています。「人々からでもなく」とは使徒職(エルサレムにいる使徒たち)のことであり、また「人を通してでもなく」とはある個人、あるいはある組織団体からでもないのだと主張しています。つまり、パウロの使徒職がいかなる人間的権威にも依存するものではないこと、むしろ、神的起源とその任命の直接性を主張しているのです。

●「人々から(ἀπό)出たのではなく、人間を通して (διά)でもなく」と始まったならば、本来の修辞的表現では「父なる神から(ἀπό)、イエス・キリストを通して(διά)」であるべきです。ところが、イエス・キリストと父なる神が一つの「ディア」(διά)で包括されているのは、主イエスと彼をよみがえらせた父なる神とは、その目的、その行為において全く同一だからです。「キリストと父とは一つ」なのです。

●使徒の働き9章1~9節によれば、よみがえられたイェシュアがダマスコ途上でパウロに現われ、パウロを召したことが記されています(使徒22:6~11、26:12~18、Ⅰコリント15:8、ガラテヤ1:15~16)。ダマスコ途上のパウロの使徒職の召命は、イエス・キリストと、キリストを死者(複数)の中からよみがえらせた父なる神からの直接的召命だったのです。パウロがこのことにこだわったのは、パウロの使徒職を否定する者たちがいたからです。

■ 1章2節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章2節
私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。

●「兄弟」を意味する「アデルフォス」(ἀδελφός)の複数形は、具体的にだれのことを意味するのでしょうか。このガラテヤ人への手紙が書かれた場所は、1章6節の「このように急に」とあることから、第二次伝道旅行のトロアスに着く前か、あるいはトロアスと考えられます。

●その時のパウロの同労者が2節の「私とともにいるすべての兄弟たち」のことです。と言っても、この手紙が共同執筆であったわけではなく、パウロ個人からのものです。というのも、5節で「私は驚いています」とあるように、1人称になっているからです。とすれば「私とともにいるすべての兄弟たち」とは誰のことかと言えば、パウロを深く悲しませているガラテヤの諸教会の実情を知っていた者たちであるだけでなく、パウロの書いている内容を知っている者たちです。

ガラテヤ地方.PNG

●「ガラテヤ」(Γαλατία)というのはひとつの町の名ではなく、地方の名前です。「ガラテヤ」は「北ガラテヤ地方」と「南ガラテヤ地方」とに分かれています。パウロが第一次伝道旅行の時に訪れた「ガリラヤ」とは、南ガラテヤ地方にあるピシディアのアンティオキア、イコニオン、リステラ、デルベ(都市名はいずれも【新改訳2017】に準じています)の四つの都市を指します(使徒13、14章)。しかし、第二次伝道旅行の時にパウロが訪れようとした地方での働きはほとんど何も書かれていません。したがって、この手紙の宛先である「ガラテヤの諸教会(「エックレーシア」ἐκκλησία、ここは複数形の「エックレーシアイ」ἐκκλησίαί)とは、パウロが第一次伝道旅行で訪れた南ガラテヤ地方だと考えられます。そこにはユダヤ人たちが多く住んでいたことから、教会がユダヤ教主義的クリスチャンから容易に惑わされる危険があったと思われます。

●ちみなに、イェシュアはご自身を信じる集会、あるいは会衆のことを「エックレーシア」(ἐκκλησία)を建てると言われました(マタイ16:18)。使徒の働きでは5章11節で初めて「教会」という語彙が登場します。時代が進むごとに、「ユダヤ人の集会」(「スナゴーゲー」συναγωγή)から「キリストを信じる集会」(「エックレーシア」ἐκκλησία)へと変わって行ったのです。

■ 1章3節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章3節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

●「あなたがたに」と訳された「ヒュミン」(ὑμῖν)は「あなた」(「スー」σύ)の複数与格。

●「恵みと平安があなたがたにありますように」と訳されていますが、原文は「恵みと平安があなたがたに」とあるだけです。「恵み」と「平安」は「カリス」(χάρις)と「エイレーネー」(εἰρήνη)ですが、へブル語では「セヘド」(חֶסֶד)と「シャーローム」(שָׁלוֹם)です。旧約には「恵み」と「平安」という組み合わせは見られません。

●当時の手紙の挨拶は「~に挨拶します、~にご挨拶を申し上げます」でした。その用例が使徒の働き15章23節と23章26節にあります。ギリシア語では「カイロウ」(χαίρω)の不定詞で「カイレイン」(χαίρειν)です。それをパウロは福音的な挨拶として「恵みと平安があなたがたに(ありますように)」と変えたのです。新約聖書ではパウロの手紙に11回(Ⅰ・Ⅱテモテとへブル書を除く)、ペテロの手紙に2回、そしてヨハネが黙示録で1回使っています。これは初代教会の使徒たちが、新しい福音的な挨拶用語として作り出したものです。この挨拶用語を用いる時、使徒たちは神の深い契約の確かさとその実現を思い描いていたに違いありません。

●「恵み」(「カリス」χάρις)ということばは、神のご計画におけるすべての祝福の総称である「平安」を私たちに与えるところの動機となることばです。それは神の契約におけるゆるぐことのないを「確固とした愛」、「決して裏切られることのない信頼すべき愛」を意味します。受けるに値しない者に与えようとする神の好意は、ヘブル語では本来「へセド」(חֶסֶד)ではなく「ヘーン」(חֵן)が用いられます。しかし、ギリシア語の「カリス」(χάρις)はその両方の意味で使われるため、どちらの意味で使われているのかは、文脈で知るほかありません。ちなみに、ここでのへブル語訳は「ヘセド」が使われています。

●挨拶用語とは、それについての説明がなくても、差出人の思い入れが強いものです。パウロはこの「恵みと平安があなたがたに」ということばの中に、使徒としての万感の思いを込めたと思われます。

■ 1章4節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章4節
キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。

●4節は、3節の「主イエス・キリスト」にかかる形容詞的修飾節です。それを訳文ではわかりやすくするために、キリストを主語にして説明しているのです。4節冒頭の「トゥー・ドンテス」(τοῦ δόντος)は、動詞「与える」(「ディドーミ」δίδωμι)のアオリスト分詞属格で、キリストは「自分自身を与えてくださった方」として、以下の三つの文節―対象(何のために)、目的(何をするために)、使命(誰に従って)ーを支えています。文章構成は以下のとおり。

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●「今の悪い時代」は三つの語彙からなり、特に「今の」と訳されている「エネストートス」(ἐνεστῶτος)は「エネステーミ」(ἐνίστημι)の現在完了形で、あるときに始まったことが今もずっと続いている状態を意味しています。つまり「今の悪い時代」とは、サタンの支配にある罪の死の原理が支配している時代(世界)です。この「今の世」と対立するのが、神の支配下にある「次に来る世」(エペソ1:21)です。パウロは終末論的視点から、「今の悪の世界」から私たちを救い出そうして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになったこと、しかもこのことは神である父のみこころによっていることを語っています。私たちの置かれている霊的状況とキリストによる解放が、終末論的視野を簡潔に、そして見事に表しています。


■ 1章5節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章5節
この神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

●4節は3節の「キリスト」に掛かる形容詞的修飾句であったように、5節は3節の「私たちの父なる神」に掛かる修飾句です。冒頭の「ホー」()は、関係代名詞(「ホス」ὅς)の与格。

●「栄光」は「ドクサ」(δόξα)、ヘブル語では「カーヴォード」(כָּבוֹד)。「世々限りなくありますように」の直訳は「永遠の永遠まで」で「エイス・トン・アイオーナ」(εἰς τον αἰώνα)の複数形。ギリシア語が複数となっているため、ヘブル語訳も「レオールメー・オーラーミーム」(לְעוֹלְמֵי עוֹלָמִים)と複数形になっています。しかし「世々限りなく」(永遠に)は、特に詩篇で多用され、その多くは「オーラーム・ヴァーエッド」(עוֹלָם וָעֶד)といずれも単数で表現しています。

■ 1章1~5節までの要約

●パウロの手紙を原語で読むと、本筋と形容詞的修飾句の区別がつきます。修飾句を取り除くと、以下のようにとてもシンプルな文となります。
1節 使徒パウロ、および、私とともにいるすべての兄弟たちから
2節 ガラテヤの諸教会へ
3節 恵みと平安があなたがたに(私たちの父なる神と主イエス・キリストから)

●しかし形容詞的修飾句をどのような言葉で表しているか、それによってパウロの思考や語彙の概念、および、パウロの真の福音のための戦いの姿勢が見えてきます。

(1) 1節の「人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって」の中に、使徒としての権威と責任を与えられたことをパウロは深く受け止めていたのです。

(2) 4節の「キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。」の中に、キリストは「今の悪の時代から救い出すために死なれたのです」から、キリストを信じた者はもはや「この世の者ではない」ということ。したがって、世と妥協することは、人の目には良いクリスチャンとみなされても、それは霊的な不倫であり、キリストを裏切ることになるということです。

●このように、単なる挨拶一つをとっても、そこからほとばしるパウロの「キリストの福音の熱いあふれ」が今にも伝わってきます。


2019.6.27


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