****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ブライダル・パラダイム (2)

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3. ブライダル・パラダイム (2) ー花嫁の日々の歩み

【聖書箇所】詩篇27篇4節、詩篇63篇1節

ベレーシート

  • 今回は、シリーズ「キリストの花嫁」の第三回目です。キリストと教会とのかかわりを「花婿と花嫁」という視点から見る見方を「ブライダル・パラダイム」と称して、前回は、花嫁の霊性の特徴についてお話ししました。その霊性の特徴は、何よりも神を知ること、神を愛することを喜びとし、そのことを何よりも大切にすることです。つまり、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして主なる神を愛する」という第一戒に生きる世界であり、主の前にすわって主の語られることばに耳を傾けるというマリヤの霊性、あるいは、「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で思いにふける、そのために。」と歌った「ダビデの霊性」ともつながるのです。
  • 昨日の「サムエル・ミニストリー」(7/11)ではマラキ書の2章を瞑想しました。マラキ書は旧約聖書の最後にある預言書です。この預言書が書かれてからバプテスマのヨハネが現われるまでの約四百年間、預言者を通して主のことばが語られることはありませんでした。この神の沈黙が何を意味するのか。神のご計画においてはそこにも秘められた必然性が隠されているはずです。しかしそれはともかくとして、マラキ書の中で糾弾されているのは「祭司たち」だということが重要なのです。なぜなら、本来の「祭司の務め」は働くことではなく、神の臨在の中で過ごすこと、神を仰ぎ見、顔と顔とを合わせて、神を知ることだからです。
  • 「祭司」と同時に「王」の務めは、人間が神によって創造された時から人間に与えられた務めです。最初の人アダムはエデンの園においてその務めを果たしていたのです。そもそも人間は神のかたちとして造られましたが、その神のかたちとは三位一体なる神が持っているかたちです。そのかたちとは愛のかかわりであり、それは互いを知るという関係です。三位一体なる神(御父・御子・御霊)の揺るぎない永遠の愛の交わりこそ神のかたちであり、そのかかわりに似せて人が造られたとすれば、人にもその務めが反映されていることは言うまでもありません。その務めを別なことばで言うならば、「祭司としての務め」と「王としての務め」なのです。後に、神の民イスラエルが「王である祭司」、あるいは「祭司の王国」と呼ばれるのはそのためです。「祭司の務め」と「王の務め」が健全に果たされるべく立てられたのが後に登場する預言者です。これら三者の務めが正しく機能することによって神の創造のみこころが地上になされるのです。
すべては一つの霊性.JPG
  • 人間の「祭司としての務め」とは、「顔と顔を合わせて」(Face to face/「パーニーム・エル・パーニーム」פָּנִים אֶל־פָּנִים)神と過ごすこと、神を仰ぎ見ること、神を知り、神に愛され、神を愛することです。この「祭司の霊性」が、「ダビデの霊性」「マリヤの霊性」「花嫁の霊性」とも深く密接につながっているのです。つまり、これら四つの霊性はみなひとつにつながっていることを、今回、念頭に置いていただきたいのです。
  • 神の民が「祭司としての務め」を回復することによって、はじめて「王としての務め」を完成させることができるのです。その逆ではありません。神のみこころにかなった「祭司の務め」があるところに、神の代理者として「治める」という「王としての務め」が成り立つのです。「王の務め」の特権は単に人(民)を支配するという意味ではありません。神の秘密(奥義)を知り、それによって、神の支配を完成させる務めなのです。「祭司の王国」、「王である祭司」という表現は、神への務めとして密接な関係があるのです。

①「あなたがた(イスラエル)はわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト19:6)
②「あなたがたは、王である祭司・・・とされた民です」(Ⅰペテロ2:9)
③「私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。」(黙示録1:6)

  • 「王であり、かつ、祭司としての務め」を果たした最初の人はアダムですが、モーセもその一人です。彼は神の民の指導者である前に祭司でした。「【主】は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。」(出エジプト記33:11)とあります。彼は40日間も主の山で過ごした人です。そして神の教え(トーラー)が彼を通して与えられたのです。それゆえモーセには神の権威と神の力が賦与されていました。
  • 神の民イスラエルが主を礼拝するために「幕屋」が建造されましたが、そこで「祭司としての務め」に任じられたのはレビ族でした。ヤコブの子どもたちの中で「レビ」は三番目の子です。「レビ」という名の意味は、母レアが「今度こそ、夫は私に結びつくだろう。」と言ってつけた名前です。ネーム・セオロジーの視点から見るなら、「レビ」(「レ―ヴィー」לֵוִי)という名前には「神と結びつく」「神と一体となる」という意味が隠されています。祭司たちはこのレビの系譜にある者たちであり、実はモーセもその系譜の中にいた人です。レビ族はこの務めのために、他の部族とは異なる務めがゆだねられていました。従って、目に見える土地という嗣業は彼らには与えられていません。むしろ、彼らの嗣業は神ご自身なのです。そこには神とのかかわりにおいてきわめて重要な、永遠の務めとしての「型」があるのです。
  • 前置きが長くなりましたが、今の段階では、キリストの花嫁に秘められた啓示をランダムに(示されるままに)取り上げているだけで、まとまった形全体には至っていません。しかし、示されたままを語って行きたいと思います。これまでのことは、「キリストの花嫁の霊性」がダビデやマリヤ、そして祭司の霊性とつながっていることを知っていただくためです。そのことを念頭に置きつつ、今回の「ブライダル・パラダイム」(2) で取り上げようとしていることは花嫁がいつの日か花婿と「顔と顔とを合わせる」日を待ち望むという姿勢(ライフスタイル)についてです。

1. 顔と顔を合わせて見る日まで

  • 待ちに待った結婚式で、花嫁はベールを顔にかけたままで入場して来ます。花嫁のベールを上げることができるのは、花婿だけです。花嫁がベールを上げられた状態で入場してきたとしたらどうでしょう。実は私の結婚式がそうでした。これは、挙式する私たちも、そして司式者も、そして周囲の者たちも結婚の奥義について全く無知であった証拠です。今は笑い話になっていますが・・・。パウロはこの結婚の奥義を次のように述べています。

【新改訳改訂第3版】Ⅰコリント書13章12節
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。
今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。


●この構文は、ユダヤ的修辞法である同義的パラレリズムが使われています。同じ内容を別の表現で表わす語法です。つまり「ぼんやり映るものを見ている」とは「一部分しか知らない」ということであり、その時(=救いの完成の時)には、「顔と顔とを合わせて見る」ことを「完全に知る」ことだと説明しているのです。

  • 私たちの救いの究極的な目的は、「神の御顔を仰ぎ見る」(黙示録22:4)ということです。花嫁の究極の喜びは、花婿といつの日か、「顔と顔を合わせて見る」ことができるということです。では、現在は「顔と顔とを合わせて見る」ことはできないのでしょうか。いいえ。ベールをかぶった花嫁のように、完全ではなくても、「ぼんやり」と見ることはできるのです。「一部分」を知ることができるのです。とすれば、ぼんやりでであっても、花婿の顔を慕い求めようとすることは自然です。主の隠された秘密の一部分ではあってもそれを知ろうとすることは花嫁にとっては自然なことであり、花嫁としての喜びなのです。その喜びを日々経験することで、花婿を待ち望む思いは日々より増してくるのです。そうしたあり方、生き方は、ある意味において、主をあかしする力となります。周囲の人々に大きな影響を与えることになるに違いありません。いろいろな催しをして人々を教会に集めたとしても、花嫁自身が喜びを味わっていなければやがて人は去って行きます。なぜなら、真の希望と信仰と愛が一つに結びついていないないからです。花婿がしようとしていること、花婿の心を知らずにいる花嫁、それが現代の教会の姿です。それゆえ、生きる力を生み出すことができないのです。
  • 前回の「ブライダル・パラダイム(1)」で、主を「尋ね求める」、主を「求める」ことこそ、花嫁の霊性なのだということを述べました。今回も詩篇27篇を通してもう一度そのことを考えてみたいと思います。

【新改訳改訂第3版】詩篇27篇4節、8~9節
4 私は一つのことを【主】に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、【主】の家に住むことを。【主】の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。

8 あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ」と。【主】よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。
9 どうか、御顔を私に隠さないでください。


●8節の「あなたに代わって、私の心は申します。」とは「主の言葉を借りて言います」という意味(フランシスコ会注解)。
●9節で、ダビデが「どうか、御顔を私に隠さないでください。」と願ったのは、ダビデが主の御顔を仰ぐことが力をもたらすことをよく知っていたからです。


●これらの節からだけでも、「渇望用語」―「希求用語」と言える語彙(動詞)が以下のように多く見出すことができます。

(1) 「願った」・・・・・「シャーアル」(שָׁאַל)
(2) 「求めた」・・・・・「バーカシュ」(בָּקַשׁ)
(3) 「仰ぎ見る」・・・・「ハーザー」(חָזָה)
(4) 「思いにふける」(新改訳)=「尋ねきわめる」(口語訳)=「朝を迎える」(新共同訳)・・・「バーカル」(בָּקַר)
(5) 「(主の御顔を)慕い求める」・・・「バーカシュ」(בָּקַשׁ)

●「バーカシュ」は4回も使われています。ダビデが「心を尽くして主を慕い求めたことを表しています。
●「バーカル」(בָּקַר)については、後で詳しく触れることになります。 

  • これらの渇望の目的は、4節においては「主の家に住み」、そして「主の麗しさを仰ぎ見る」ことです。8~9節では、「主の御顔を慕い求める」ことです。花嫁の美しさは、花婿をひたすら慕い求めるところにあります。その花婿の御顔を慕い求めることから離れることは、ぶどうの枝が幹にとどまっていないことを意味します。イェシュアが最後の晩餐の席で、これから地上に残される弟子たちに語られた説教の中で、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」と言われました。これは花婿を待つ花嫁にも適用できると思います。花婿を慕い求める愛は、その花嫁を最も美しくするのです。
  • このことが教会において最も強く表われるのは「聖餐式」(「主の晩餐」)においてです。ところが今日のキリスト教会は、その聖餐にあずかることのなかにその喜びが喪失しています。イェシュアの十字架の上で流された血潮は(血の杯)は、ブライダル・パラダイムからすると、御子イェシュアの驚くべき求愛行為です。ぶどう液に象徴されるその血潮を飲むという行為は、その求愛行為を受け取ったことを意味します。つまりそこで婚約が成立し、将来の結婚を約束し合ったことを意味するのです。聖餐式は自分がキリストの花嫁となったことを思い起こすときであり、やがて迎えに来られる花婿の顔を慕い求める生き方を新たにする時なのです。しかしブライダル・パラダイムが希薄であるために、聖餐にあずかることがさらなる主の御顔を慕い求めることにつながっていかないのです。
  • それには理由があります。その理由の一つは、ブライダル・パラダイムが明確でないことに起因しています。ブライダル・パラダイムを持つためには、聖書が語っている「その日(主の日)」についての正しい理解、つまり、終末についての知識が不可欠なのです。その知識が欠落しているなら、ブライダル・パラダイムをもって生きることが希薄になります。ブライダル・パラダイムは「御国」のパラダイムそのものです。「御国の福音」と「キリストの花嫁」の概念は密接な関係にあるのです。これからのキリスト教会は「御国の福音」と「キリストの花嫁」の概念をより明確にすることが求められているように思います。聖書が「御国」の視点から解釈される時、これまでの解釈とは異なったものが見えてきます。と同時に、教会の概念が「キリストの花嫁」という視点から見直されるとき、今、教会が何をすべきなのか、また、それをいつどのようにすべきなのかが見えてくると信じます。「すべき」と言っても、それは教会の「働き」のことではなく、教会の「あり方」のことを意味しています。

2. 花嫁が花婿の御顔を慕い求めるための聖別された「時」

  • 聖書の中で主の御顔を慕い求めた者たち、主と「顔と顔を合わせる」ことのできた人々には、共通したライフスタイルがあることをこれからお話ししたいと思います。それを知るために、先ほどの詩篇27篇4節を新改訳と新共同訳で読み比べてみたいと思います。

【新改訳改訂第3版】
私は一つのことを【主】に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、【主】の家に住むことを。
【主】の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。 

【新共同訳】
ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えることを。

  • 青色の太文字の部分に注目してください。「思いにふける」(新改訳)と訳された語彙が、新共同訳では「朝を迎えること」(新共同訳)と訳されています。なぜそのような訳になるのでしょうか。その箇所は「バーカル」(בָּקַר)というヘブル語動詞が使われているのですが、動詞「バーカル」には「注意深く調べる」という意味と、「思いにふける」「考え直す」「伺いを立てる」という意味があります。しかしこの動詞の意味からは新共同訳のような意味は出てきません。おそらく、新共同訳は「バーカル」の名詞「ボーケル」(בֹּקֶר)から「朝を迎えること」と訳しているのではないかと思います。
  • ところで、ブライダル・パラダイムから見ると、この二つの訳はとても大切なことを示唆していることが分かります。というのは、主の御顔を慕い求めた者たち、主と「顔と顔を合わせる」ことのできた人々の共通したライフスタイルは「」と関係があるのです。つまり、彼らの多くが「」に主と出会っているのです。
  • 詩篇63篇1節も見てみましょう。

    【新改訳改訂第3版】詩篇63篇1節
    神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。
    水のない、砂漠の衰え果てた地で、
    私のたましいは、あなたに渇き、
    私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。

  • 詩篇63篇に見る詩人の渇きは尋常ではありません。主を求めるその渇望は「私はあなたを切に求めます」という表現の中に隠されています。以前、この箇所にある「切に」という訳が「朝早く」と訳すことができることを知りました。ヘブル語の知識のない者にとっては、どうしてそういう訳になるのかが分からないはずです。しかし「切に」と訳されたヘブル語の「シャーハル」(שָׁחַר)という動詞をヘブル語辞典で調べることにより、それが「熱心に求める、熱心に捜し求める」という意味であることが分かります。しかもその名詞「シャハル」(שַׁחַר)が「暁」「夜明け」という意味をもっていることがわかるのです。つまり、旧約の人にとって、主を熱心に捜し求める時は「暁」「夜明け」の時だと分かるのです。詩篇63篇の作者の「切に求めます」とは「夜明け」に主を探し求めているのです。では、なぜ「夜明け」なのでしょうか。
  • これは、この詩人だけでなく、主を求める者たち、主と顔と顔を合わせた者たちが、「朝」「夜明け」の頃に主の現われを経験しているからです。朝は主との密会の時なのです。しかも主と出会う最良の時なのです。主がご自身を顕わしてくださる時なのです。朝は一日の中で最も重要な時なのです。
  • 私の経験から言っても、このことは「アーメン」とうなずくことができます。私の「牧師の書斎」には多くのコンテンツが含まれていますが、その最初は「詩篇の瞑想」でした。その内容をブログとして投稿しはじめたのは今から10年前、2005年の冬からでした。朝の2時、3時に起きて2時間ほど、毎日、詩篇の瞑想を続けたのです。それから3年ほどして、詩篇の瞑想にはヘブル語の知識が必要であることを悟り、本格的にヘブル語で神のみことばを味わうようになっていったのです。
  • 朝はだれにも邪魔されない時であり、主と主のことばに深く沈潜できる最良の時であり、一日の中で最も重要な主の訪れの時なのです。そのことを示す例を見てみましょう。その前に、聖書のいう「朝」とは午前3~6時頃までです。

(1) モーセ
【新改訳改訂第3版】出エジプト記34章1~3節
1 【主】はモーセに仰せられた。「前のと同じような二枚の石の板を、切り取れ。わたしは、あなたが砕いたこの前の石の板にあったあのことばを、その石の板の上に書きしるそう。
2 朝までに準備をし、シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。
3 だれも、あなたといっしょに登ってはならない。


(2) ヤコブ
【新改訳改訂第3版】創世記32章24~28節
24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうち
に、ヤコブのもものつがいがはずれた。
26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。
私を祝福してくださらなければ。」
27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」


(3) イェシュアの弟子たち
【新改訳改訂第3版】マルコの福音書6章46~51節
46 それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。
47 夕方になったころ、舟は湖の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。
48 イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。(「通り過ぎる」とは主の顕現の表現)
49 しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。
50 というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
51 そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。

  • 他にも、多くの例を聖書に見出すことができます。ちなみに、イェシュアの祈りの時はいつもまだ暗い時(早朝)でしたし、復活も早朝でした。特に、神(主)がこの地上で私たちに現われて下さる時は早朝なのです。それゆえ、キリストの花嫁である私たちは、主が訪れてくださる特別な時間として「朝」(「ボーケル」בֹּקֶר)を聖別しなければなりません。最後に、以下の詩人の声に耳を傾けて終わりましょう。

【新改訳改訂第3版】詩篇5篇3節
【主】よ。朝明けに、私の声を聞いてください。
朝明けに私はあなたのために備えをし、見張りをいたします


●「朝明け」「朝ごと」・・「ボーケル」(בֹּקֶר)
●「備えをする」・・・・・「アーラフ」(עָרַךְ)
●「見張りをする」・・・・「ツァーファー」(צָפָה)

  • 私は、この「朝明けの備え」を「モーニング・ウォッチ」と呼んでいます。眠りから目覚めた花嫁のライフスタイルは、この「モーニング・ウォッチ」を花婿との愛を培う大切な時として、日々、聖別することではないでしょうか。


2015.7.12


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