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ヘブル的視点から聖書を読み直す (2)

22. ヘブル的視点から聖書を読み直す (2)

へブル的視点から見た「この杯」の意味

はじめに

  • 以前にも、福音書を「ヘブル的視点から読む」ということを取り上げましたが、今回のセミナーでもそのことについて扱いました。昨今、イエスのことばを理解する上でこのことは避けて通ることができない流れとなりつつあります。キリスト教の歴史の中で三位一体の教理が確立されたのはニカヤ会議ですが、その会議においてユダヤ的なものが断ち切られるという決定がなされたことは意外と知られていません。教会がイスラエルの民に代わり、接木された枝が主導権を握るという置換神学が主流となってしまいました。しかし、神の救いのご計画はヘブル的視点によってはじめて正しく理解され得るものなのです。
  • 9月9日の「セミナー」では、ルカ福音書にあるイエスの「ゲッセマネの祈り」の箇所を皆で「突っ込み聖研」をいたしました。この箇所で私が疑問に思ったことは「この杯」ということばでした。これまで、「この杯」とは神の怒りの杯、神のさばきの杯と理解しておりました。しかしなぜイエスがここで「この杯」と表現されたのか、そこに疑問を抱きました。考えていくうちに「この杯」はユダヤの「過越の食事」と深いかかわりがあることに気づかされました。
  • 旧約聖書にある主の例祭(過越、五旬節、仮庵の祭り)は、単にユダヤ人の祭りではなく、神が定められた救いのご計画の緻密な青写真であり、祭りの中に象徴的に啓示されているのだということを私は次第に理解するようになりました。ゲッセマネの祈りにおける「この杯」を「過越の食事」というヘブル的視点から見るとき、緻密な神の救いのご計画が見えてくるのです。

1. ユダヤ人の伝統的な過越の食事(ペサハ)

  • ちなみに、ルカの福音書22章には4回「杯」と訳される「ポテーリオン」ποτηρίονが出てきます(17節、20節、20節、42節)。すべて同じ言葉です。マタイの福音書20章22節では「わたしが飲もうとしている杯」、ヨハネの福音書18章11節では「父がわたしに下さった杯」と表現されています。それはイエスにとってはどうしても飲まなければならない「杯」でした。ここでいう「杯」というのは、「杯」という器そのものではなく、杯の中身が重要なのです。そこでユダヤ的(へブル的)視点から理解するならば、「この杯」とは「過越の食事」で飲まれる「第四の杯」を意味しているのではないかと考えられます。「第四の杯」とは、過越の食事の「完了の杯」でもあり、また同時に「賛美の杯」ともなるものです。
  • 伝統的な過越の食事では「四つの杯」にぶどう酒が注がれ、そして飲まれます。その四つの杯とは、出エジプト記6章6,7節の「わたしは・・・する」という四つの約束に基づいていると言われています。

【新改訳改訂3版】出エジプト記
6:6
それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは【主】である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきよって、あなたがたを贖う
6:7
わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。

  • それゆえ、四つの杯は以下のように呼ばれています。

(1)「聖めの杯」・・過越の食事が聖別され、はじまる時に飲まれる「第一の杯」。

(2)「感謝の杯」・・出エジプト記の10の災禍が襲う場面が朗読されるたびに、杯に指を浸し、ぶどう酒を一滴だけ外に出します。そして最後に感謝をもって「第二の杯」を飲み干します。この杯は「さばきの杯」とも言われます。詩篇113篇、114篇が祈りとして朗読されます。

―前半の儀式的な食卓は終わり、ここで歓談しながらの食事となります。

(3)「贖いの杯」・・夕食の後、「第三の杯」にぶどう酒を満たします。ここから後半の儀式的な食卓がはじまります。ここが今日のキリスト教会の聖餐式の起源となっている部分です。

マッツァ.PNG

イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝してこれを裂かれました。ここでの「パン」は「第一の杯」の後に食後のデザート(アフィコーメン)として取っておいた三枚重ねのマッツァのことです。三枚のうちの真ん中のマッツァがすでに半分に裂かれて布に包まれています。三枚という数には意味があります。しかもその中央にあるマッツァを裂くという行為も象徴的で重要です。しかし多くのユダヤ人はその意味を知らずに行っているといわれます。その真意を今イエスが明らかにしようとしておられるのです。「これはあなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えるためこれを行いなさい。」(ルカ22:19)。イエスはマッツァを割り、弟子たちに渡され、ここで全員アフィコーメンを食べます。その後、イエスは「第三の杯」を取り、「わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日まで、わたしはもはや、ぶどうの実で作った物を飲むことはありません。」(マタイ26:29) と言い、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」(ルカ22:202)と言って渡され、各自はここで「第三の杯」を飲み干します。

(4)「完了の杯」(「賛美の杯」)・・過越の食事における「第四の杯」は、主を賛美したあとに飲まれるものです。マタイもマルコもイエスと弟子たちは賛美歌を歌ってオリーブ山へと出て行ったことを記しています。ここでの「賛美歌」とは「ハレル詩篇」です(おそらく、詩篇115~118篇、および詩篇136篇)。ルカは賛美歌を歌ったことは記していませんが、伝統的な「過越の食事の式次第(ハガダー)に従って詩篇を歌ったと考えて良いと思います。特に、最後の詩篇118篇は「メシア的詩篇」で、死と復活を預言した「家を建てた者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである」(118:22~23)という箇所は有名です。

さて、イエスと弟子たちは食事が済むと、ハレル詩篇を歌いながらオリーヴ山へ行かれ、イエスは祈られました。まだ、最後の第四の杯は飲み干されてはいないのです。もしここで第四の杯が飲み干されたならば、このあとの受難と死への出来事の意味がなくなるのです。ユダヤの伝統的な「過越の食事」は、エルサレムの城壁の中で行うことが決められていました。ですから、イエスと弟子たちがエルサレムの城壁を出て、ひと気のないオリーブ山の方へと出て行ったということは尋常のことではなかったのです。  


2. 「この杯」とは第四の杯、すなわち、完了の「杯」

  • さて問題は、過越の食事で最後に飲まれる「第四の杯」についてです。どの共観福音書にも食事の席でそれを「飲んだ」とは記されていないことです。しかしどの共観福音書にも、ゲッセマネにおいて、イエスが「この杯をわたしから取りのけてください」と祈っていることは共通して記されているのです。したがってここでの「この杯」とは、当然の流れとして、「過越の食事」の最後の杯を意味していると考えるのが自然です。実際、過越の食事における「第四の杯」が飲み干されたのは、イエスが十字架の上において「父よ、わが霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取られた(ルカ23:46)時です。ヨハネはこれをイエスが「完了した」と言って、頭を垂れて、霊をお渡しになったと記しています(ヨハネ19:30)。つまりイエスは翌日(過越はニサンの月の14日で翌日の夕方まで)の午後3時頃、十字架の上において、ただ一人、過越の食事における「第四の杯」を飲まれたのです。ちなみに午後3時は、神殿において祭司たちが過越の羊を屠る時間とピッタリ一致しているのです。なんという神の驚くべき緻密な計画でしょうか。屠られた小羊なるキリストによって、「新しい契約」が神の側で整えられて実現したのです。
  • 神の小羊であるキリストによって結ばれる新しい契約が成立するためには、完了を意味する「第四の杯」をイエスは飲み干さなければなりませんでした。しかしそれは壮絶な苦しみを味わわなければならない杯であったため、ゲッセマネの祈りにおいてイエスはそれを飲むことを躊躇しています。とても飲み干せるような杯ではなかったのです。それゆえに御使いたちが天からイエスに現われて「力づけた」とあります(22:43)。それでもイエスは「苦しみもだえて、いよいよ切に祈られれ、汗が血のしずくのように地に落ちた」とあります。しかしその祈りが突き抜けたことによって、イエスは「立ち上がり」ました。この「立ち上がる」という動詞は「ア二ステーミ」άνίστημιで、いわば復活用語です。まさにイエスはここでの祈りにおいてすでに勝利し、以後、敢然とひるむことなく、捕縛され、受難の道を進まれるのです。そして最後の最後、すなわち十字架上において「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取られたことにより、22章42節にある「この杯」が飲み干されました。つまりイエスは過越の食事の最後の杯である第四の「完了の杯」を飲み干されたのです。過越の食事がイエスによって新たな意味を持ち、旧約と新約とがしっかりと結びついています。
  • この第四の杯を主とともに味わう日がきます。マタイ26章29節でイエスは次のように述べています。
    「ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
    このみことばは、主イエスと共に御国(神の国)で弟子たちと共に飲む日が来ることを示唆しています。その日とは、キリストが再臨してからのことです。第四の杯はイエスがすでに先取りして飲まれましたが、ご自分の弟子たちと共に飲むその日は、まだ実現していないのです。しかしその日が確実に来ることをこのみことばは約束しています。

2012.9.21


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