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モーセとアロンが約束の地に入ることが許されなかった真の理由

民数記の目次

18. モーセとアロンが約束の地に入ることが許されなかった真の理由

【聖書箇所】 20章1節~29節

はじめに

  • 民数記20章にはミリアムの死(1節)とアロンの死(29節)の記述があります。アロンが死んだのは、民数記32章38節に「祭司アロンは主の命令によってホル山に登り、そこで死んだ。それはイスラエル人がエジプトの国を出てから40年目の第五の一日であった」としるされていますから、その第一の月、つまり四ヶ月前にミリアムが死んだことが分かります。
  • 1節ある「ツィンの荒野」にはカデシュ・バルネアがあります。37年前半前の斥候事件によって荒野の放浪がはじまったその地点に戻ってきたことになります。そして「水」の問題が再び取り上げられています。ヘブルの表現法のひとつとして「メリズモ」という修辞法があります。両極端の事柄や言葉を用いることである領域のすべてを意味します。そのすべてのここで水のことが取り上げられたのは、イスラエルの民が荒野においてはじめてつぶやいたのは「水」の問題でした。そして荒野の放浪の終わりにも「水」のことが取り上げられることによって、荒野でのすべての期間、「水」のことで民たちはつぶやき、指導者と争い続けたことを言い表そうとしています。
  • 「水」の問題はいのちにかかわる問題で、「水」がないということは生存を脅かす事柄ですから、そのことで民は指導者といつも争いをしたようです。その争いの最初の記事が出エジプト記17章にあります。そこにおける「水」の民のつぶやきに対して、主はモーセに杖(権威の杖)をもって岩を打つならば、その岩から水が出る」と示しました。民数記20章でも同じ問題が起った時、このとき主はイスラエルの会衆の前で岩に命じれば、岩は水を出すと語りました。ところが、モーセとアロンは民に対する怒りのあまり感情的になってしまったのか、岩に命じることなく、かつてしたように権威の杖をもって岩を打ちました。しかも、二度。確かに、民や家畜の渇きをいやす水がわき出ましたが、この出来事によって、モーセとアロンは、約束の地を踏むことが許されませんでした。

1. 約束の地に入れないと言われたモーセとアロンの真の問題点

  • エジプトで苦しんでいたイスラエルの民を約束の地に導き入れるということがモーセの召命でしたが、その目的を達成することができなくなりました。厳しい神のお取り扱いです。なにがそうさせてしまったのでしょうか。実は、民数記だけではここの問題が見えて来ません。20章だけを読むならば、モーセとアロンが神の指示通りしなかったことがあげられます。あるいは、あたかも民の渇きを彼らが満たすかのような発言をしたからだと言う者もいます。つまり、栄光を神に帰さず、自分たちがこの問題を解決するかのような発言をしたということです。確かに、そのような面があるかも知れませんが、ここでモーセとアロンが約束の地に入れなかった最大の問題は、二人が岩を「二度打った」という事実にあります。
  • モーセとアロンのこれまでの功績を考えるならば、なんとか二人共約束の国に入って欲しいと思うのが人間の情です。しかし彼らが約束の地に入国できなかった真の原因はー二人共そのことに気づいたのかどうか聖書を読む限りにおいては分かりませんー、やがて来られる本体であるキリストの真理に抵触したからです。つまり、「岩」を二度打つことは、天にある本体としての神の真理を揺るがす重大な問題だったのです。

2. キリストによる贖いの卓越性をあかしする出来事

  • モーセとアロンに対する神のさばきは厳しく感じられますが、そのことでむしろ、キリストによる救いの卓越性が逆説的にあかしされているのです。特に、使徒パウロは出エジプトしたイスラエルの民のことについてコリント人への手紙第一10章1節以降で次のように述べています。

新改訳改訂第3版 
1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、
4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
5 にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。

  • ところで、新約聖書の中にキリストの救いの卓越性を指し示すキーワードの一つに「ただ一度」(一度限り)」ということば(副詞)があります。一度で最終的に決定してしまうことを意味する語彙です。英語ではonceですが、ギリシャ語では二つの言葉が使われています(互いに親類同士です)。使徒パウロとヘブル書の著者の特愛用語です。
    画像の説明

    (1) 「ハパクス」ἅπαξ(新約聖書に14回)
    2コリント11:25/ピリピ4:16/1テサロニケ2:18/ヘブル6:4/9:7/9:26, 27, 28/10:2/12:26/1ペテロ3:18/ユダ1:3, 5
    (2)「エファパクス」ἐφάπαξ(新約聖書に5回)
    ローマ6:10/1コリント15:6/ヘブル7:27/9:12/10:10

    以上の聖句からキリストの贖罪の一回性とその卓越性について記述されている箇所をいくつか取り上げてみると以下のようになります。

    (1) 「ハパクス」ἅπαξ 
    ①ヘブル
    9:25 それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストはご自分を幾度もささげることはなさいません。
    9:26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
    ②Ⅰペテロ
    3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

    (2)「エファパクス」ἐφάπαξ
    ①ローマ
    6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
    ②ヘブル
    7:27 ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。
    ③ヘブル
    9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
    ④ヘブル
    10:10 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。


追記

  • 民数記19章には罪の汚れをきよめる「赤い雌牛の規定」が取り扱われていました。それはキリストの血はすべての罪を完全にきよめる力をもっていることを啓示するものでした。そして20章ではキリストの贖いの一回性、キリストの卓越性が啓示されているのです。単なるモーセの失敗を描いているのではなく、やがて明らかになるキリストの贖いの卓越性とその完全性をモーセという不完全な器を通して啓示されていると考えることができるのです。

2012.2.14


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