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ユダヤ人のトーラーの学び方

ユダヤ人のトーラーの学び方


  • 「トーラーの知恵」という本があります(ラビ・ピンハス・ペリー著、手島薫矢・上野 正訳、ミルトス、1988発行)。その「あとがき」に、この本を翻訳された手島薫矢(てしま・いざや)氏が「ユダヤ人のトーラーの学び方」について次のように書いています。以下、抜粋。
  • 私がヘブライ大学の聖書学科の学生だった頃、指導教授(もちろんユダヤ人)が一貫して学生に要求しつづけたのは、「聖書原典(テキスト)を読んで、問題を感じ、問いを持て」ということであった。初めての授業で、その教授は、創世記の1節「初めに、神は天と地を造られた」という句を示して、問題を挙げよと言われた。私は、その時、感想を述べよとか、その意味は何かなどというならまだしも、だいだい“聖書”に問題を感じろとは何と不敬な態度だろうというような印象を覚えたことだった。しかし、後に、勉強が進むにつれて、それが二千年近く「トーラー」を読みつづけてきたユダヤ人の聖書の読み方であることを悟った。
  • “教典を学ぶ”と私たちが言う場合、それは、そこにすでに表現されている一つの“教え”または“思考”を正しく理解するということを意味する。しかし、ユダヤ人が“トーラーから学ぶ”という場合、その意味は少し異なる。トーラーに学ぶとは、トーラーを読みつつ感じる疑問や、現在読者が直面している様々な問題、これらの答えを読者自らが「トーラー」の文中に、あるいは行間に発見するという作業を意味しているのである。こういう作業を通してのみ、過去に語られた「トーラー」が現在にも訴えをもつものになる。
  • この自ら“質問”を投げかけ、“答え”を得るという作業・・・を私たちは、書物の積み上げられた薄暗い書斎にひとり座ってなどと想像しやすいが、こういうイメージはユダヤ人的風景からほど遠い。むしろ、週日の騒がしさから解放されて、家族や親しい友人と共にする安息日の食卓こそが、その“書斎”にふさわしい。その時交わされる家族や友人との会話、父と子の会話の中で、ユダヤ人は「トーラー」を学ぶのである。
  • こういう安息日の食卓に座るとある事に気づく。それは、彼らが時に、“答え”そのものよりも“質問”の鋭さを愛しているということだ。その理由を考えると、「トーラーには70の顔がある」と言われるように、いかにすぐれた“答え”であっても、相対的に見れば、それもひとつの質問に対して「トーラー」が用意している70の“答え”にすぎないという考え方からきている。
  • それで、むしろ一つの“良き質問”すなわち、問題意識というものが、すぐれた70の答えを引き出すものとして時に“答え”そのものよりも高く評価されるのである。・・このような多様な二千年の精神的遺産が「トーラー」を中心に有機的にユダヤ教の中で息づいている。



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