****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ヨッド瞑想(3) 「待ち望む」

ヨッド瞑想(3) 「待ち望む」

テキスト | 瞑想(1) | 瞑想(2)

  • 74節には「あなたを恐れる人々は、私を見て喜ぶでしょう。」とあります。このみことばから二つのことを想起します。一つは、この作者は「主を恐れる人々」の共同体におけるリーダー的存在であったという事実です。もう一つは、その「主を恐れる人々」が、なぜ作者を見て「喜ぶ」のか。その答えはそのあとにあります。つまり、「私が、あなたのことばを待ち望んでいるからです。」と。なにゆえに、作者が神のことばを待ち望むことを見て、主を恐れる人々は喜ぶのでしょうか。
  • 最初のポイント、この詩篇119篇の作者は、「主を恐れる人々」のリーダー的存在であるという点について、74節の他に以下の箇所でこう記されています。
    63節「私は、あなたを恐れる者すべての者と、あなたの戒めを守る者とのともがらです。」
    79節「あなたを恐れる人々と、あなたのさとしを知る者たちが、私のところに帰りますように。」
    53節「あなたのみおしえを捨てる悪者どものために、激しい怒りが私を捕えます。」
  • 「主を恐れる者(人々)」たちの連帯の存在があったようです。バビロン捕囚の経験を通して、神の歴史を回顧しながら、神の絶大な愛に目覚めた神の民たちの共同体が生まれました。それが「ともがら」ハーヴェル(חָבֶר)です。その共同体のリーダーは大きな責任を担わせられていたに違いありません。
  • 一つの共同体は一人のリーダーによって大きな影響を与えられます。そのリーダーの信仰が共同体にとっていのちを与える存在となるか、あるいは逆のこともあり得るはずです。74節には「主を恐れる人々」はリーダー的存在に目を向けていました。そして「喜んでいた」のです。なぜなら、そのリーダーが「主を待ち望んでいたから」です。
  • ところで、主を「待ち望む」と訳された動詞はヤーハルיָחַל(yachal)です。この動詞は、将来になされる神の善を信じて、今日を生き抜く力を持たせる「待ち望み」を意味します。たとえ前が見えずとも、現実はより厳しいものであろうとも、神の善を信じ抜く力です。特に、この力はリーダー的な存在には必須のものです。自分を励ますことができて、はじめて人を励ますことができるからです。
  • このヤーハルיָחַל(yachal)は、旧約で41回、詩篇で20回、そして詩119篇では6回(43, 49, 74, 81, 114, 147)使われています。詩篇で使われているヤーハルיָחַלを分析してみると、望みの対象は、主のみことば(約束)、さばき、恵みを待ち望むという言及がありますが、とりわけ多いのが、「主ご自身」です。しかも、「なおも」「絶えず、」「とこしえまでも」と、じっと沈黙し、耐えながら、今与えられている所で、神の時を待ち望む姿が見えてきます。そのひとつの例として、詩42篇、詩43篇にある「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。思い乱れているのか。神を待ち望め。」のみことばをあげることができます。
  • 絶望的な状況の中で、自分のたましいに呼びかけ、そのたましいに対して、「神を待ち望む」ように励ますことのできることが、リーダーとしての資質です。詩119篇の作者はまさに、そのような存在であったと言えます。神の愛のまなざしをしっかりとキャッチしながら、自分と自分の仲間に信仰による励ましを与えることのできる存在、それは単調な日々の中での集中した瞑想によって、鍛練された者であったことを教えられます。

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional