ヨハネの福音書における動詞「信じる」
瞑想のための予備知識
3. ヨハネの福音書における動詞の「信じる」と他の知覚動詞との関係
はじめに
- 「信じる」という動詞「ピステューオー」πιστεύω は、新約聖書で241回使われていますん゛。その中でもダントツに多いのがヨハネの福音書です。共観福音書のマタイは10回、マルコ14回、ルカ9回。しかしヨハネは98回です。特に、今回の「四旬節の瞑想」(ヨハネ13~17章)では、13章1回、14章7回、15章0回、16章4回、17章3回です。一番多いのが14章の7回ですので、ここで、ヨハネ福音書の「信ずる」ということについて、少しく注目したいと思います。
1. ヨハネの14章に見られる「信じる」という動詞
- ヨハネ14章で動詞「ピステューオー」πιστεύω が使われている箇所
①1節a「あなたがたは心騒がしてはなりません。神を信じ(なさい)。」
②1節b「あなたがたは心騒がしてはなりません。・・またわたしを信じなさい。」
③10節「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたがたは信じないのですか。」
④11節a「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。」
⑤11節b「さもなければ、わざによって信じなさい。」
⑥12節「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない」
⑦29節「今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、
あなたがたが信じるためです。」
2. 「信じる」ことと知覚動詞の関係
- 「信じる」ことと、知覚動詞である「知る」、「見る」、「(言うのを)聞く」というのは密接な関係にあるようです。今回の「四旬節の瞑想」No.8の聖書箇所である14:7~14において、顕著な語彙は以下の通りです。
14:7「知っていたなら」・「知っていたはず」・「知っており」・「見た」
14:8「見せて」
14:9「知らなった」・「わたしを見た」・「父を見た」・「見せて」
14:10「信じないのか」・「言う」(聞く)・「話す」(聞く)
14:11「言う」(聞く)・「信じなさい」・「信じなさい」
14:12「わたしを信じる者」
- 「知る」4回、「見る」5回、「聞く」3回、「信じる」4回。
- 「知る」ギノースコオーγινώσκωは、単に、知識的に知ることではなく、かかわりを通して、御子イエスがどのような方であるを深く味わい知るということです。
- 「見る」ホラオー ὁράωも、単に目で見るだけでなく、知的に見る、認める、理解する、分かる、味わう、経験する、~にあずかる、を意味します。
- 「聞く」アクーオーάκούωという用語はヨハネの14章には直接には出てきませんが、弟子たちがイエスが「言う」λέγω ことばを、当然、聞いているわけです。この「聞く」も、単に耳で聞くだけでなく、理解する、聞き従う、耳を傾ける、聞き取る、理解する、という意味です。
- これらの「知る」、「見る」、「聞く」という知覚動詞が、「信じる」ということばと密接な関連をもっているというのが、ヨハネ福音書の特徴と言えます。
3. ヨハネ福音書の独自の表現―信じることに関しての二つのタイプ(型)
(1) 「ピステューエイン(※)・エイス」という型 (πιστεύειν είς)「~(対格)を信じること」
- ヨハネ福音書では35回使われています。信じる対象の大部分が「神、あるいは、イエス」に関連することに集中しています。
- ※「ピステューエイン」πιστεύεινは、動詞「ピステューオー」πιστεύωを名詞化した「不定法」の現在形です。つまり、「信じること」という意味。
(2)「ピステューエイン・ホティ」という型(πιστεύειν ὅτι)
- この型はヨハネの福音書では12回使われています。信じる事柄が「ホティὅτι以下に記されている内容」です。英語ではThat 以下の構文に記されている事を信じるということです。ヨハネ福音書の場合、その内容のほとんどがキリストに関することです。
- たとえば、
6:69 「あなたが神の聖者であることを」信じます。(ペテロの言葉)
11:3 「あなたが世に来られる神の子キリストである、と」信じております。(マルタの言葉)
14:10「わたしが父におり、父がわたしにおられることを」あなたがたは信じないのか。
16:27「わたしを神から出て来た者と」信じた。
16:30「あなたが神から来られたことを」信じます。(弟子たち)
17:8, 21に「あなたがわたしを遣わされたことを」信じる。
で用いられています。
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