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ヨブの最後の弁論(1)

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20. ヨブの最後の弁論(1)

【聖書箇所】27章1~23節(27章1~6節)

ベレーシート

  • ヨブ記26章~31章までヨブの弁論がはじまります。素朴な質問として、三人の友人たちのうち、エリファズとビルダデの二人はそれぞれヨブに対して三回の対論を述べていますが、もう一人の友人であるツォファルは二回しかなく、一回欠けています。そこで、27章7~23節、あるいは、13~23節の部分がツォファルの三回目の対論だと考える解釈があります。確かに、その箇所の内容はこれまでツォファルが語ってきた内容と同一です。ですから、そのような解釈することは可能です。ヨブが「悪者の神からの分け前」として語ったとしても可能ですが、その必然性が希薄と言えます。いずれにしても、今回は、27章1~6節まで、確実にヨブが語ったといえる部分に焦点をあてたいと思います。

1. ヨブの格言とは

  • ヨブ記の中にはじめて「ヨブの格言」というフレーズが登場します。「格言」と訳されたヘブル語は「マーシャール」(מָשָׁל)で、「箴言、ことわざ、たとえ、なぞ」を意味します。しかし、27章にはそのような意味における内容の記述が見当たりません。また「格言」という訳も、新改訳とバルバロ訳だけがそのように訳しているだけで、多くの聖書では訳出されていません。
  • 名尾耕作氏も「格言」とは、ここでは「箴言」のような意味ではなく、ヨブがこれまで口ぐせのように言い続けている主張の意味である」と説明しています。「ヨブがこれまで、口ぐせのように言い続けている主張」とは、神に対して自分は潔白(誠実)であるという主張ですが、その主張の仕方が格言的といえるのかどうかわかりませんが、実に、美しいヘブル語特有のパラレリズムの修辞法によって記されているのです。その意味では、バルバロ訳の「ヨブは格言をつかって」とか、新改訳の「ヨブは格言を取り上げて」という訳は十分にうなずけるのです。
  • ところで、三人の友人たちの長い対論の中でヨブが発言した「私の代わりの者」(14:14)、「私の証人」(16:19)、「私を保証してくださる方」(16:19)、「私を保証する者」(17:3)、「私を贖う方」(19:25)といった表現(それらはすべて自分の潔白をヨブに代わって証言してくれる存在を意味しますが)が一切なく、孤軍奮闘しているヨブの姿だけが目立ちます。そうした視点からヨブ記を見れば、ヨブ記の構造が「富士山型」だとする北森嘉蔵師の解釈もうなずけます。

2. ヨブの格言的主張

  • ヘブル詩特有の美しい修辞法である「パラレリズム」を通してヨブの主張を味わってみたいと思います。ちなみに、パラレリズムには三つのパターンがあります。一つは「同義的パラレリズム」で、ある文節と同じ意味する内容を別の語彙を使って言い表わします。二つ目は「反意的パラレリズム」で、ある文節とは反対の意味の内容を次節で言い表します。そして三つ目は「総合的パラレリズム」で、ある文節を次節ではそれを補足する形で言い表します。
  • 27章2~6節の箇所では、一つ目の「同義的パラレリズム」と、三つ目の「総合的パラレリズム」が使われています。それを見てみましょう。

    【新改訳改訂第3版】
    2 節【同義的
    私の権利を取り去った神、
    私のたましいを苦しめた全能者をさして誓う。

    「私の権利を取り去った」とは、自分の潔白さを訴える権利が神から与えられていたとしても、それに対する応答がないことは実質、その権利を取り去ったことと同じことで、それがヨブのたましいを苦しめているのです。また、「神」(「エール」אֵל)も「全能者」(「シャッダイ」שַׁדַּי)と同義です。特に、「全能者」という語彙はヨブ記の特愛用語です。


    3 節【同義的】
    私の息が私のうちにあり、
    神の霊が私の鼻にあるかぎり、

    「息」と訳された「ネシャーマー」(נְשָׁמָה)と「霊」と訳された「ルーアッハ」(רוּחַ)は同義です。


    4 節【同義的】
    私のくちびるは不正を言わず、
    私の舌は決して欺きを告げない。

    「くちびる」と訳された「サーファー」(שָׂפָה)と「舌」と訳された「ラーショーン」(לְשׁוֹן)は同義。また、「不正」と訳された「アヴラー」(עַוְלָה)と「欺き」と訳された「レミッヤー」(רְמִיָּה)も同義です。


    5 節【総合的】
    あなたがたを義と認めることは、私には絶対にできない。
    私は息絶えるまで、自分の潔白を離さない。

    「あなたがたを義と認めることは、私には絶対にできない」という意味は、もし義と認めることは、自分が潔白でないことを認めることになるからです。ですから「私は息絶えるまで、自分の潔白を離さない。」のです。


    6 節【総合的】
    私は自分の義を堅く保って、手放さない。
    私の良心は生涯私を責めはしない。

    ヨブが「自分の義を堅く保って、手放さない」のは、彼の「良心」が生涯、彼を「責めはしない」と確信しているからです。


3. ヨブの主張から学ぶべきことは「ゆるぎなさ」

  • 自分は神の前に潔白であるという主張して孤軍奮闘しているヨブですが、その姿は私たちにとって励ましとなります。というのは、私たちはヨブのような罪のない潔白さを主張することはできませんが、「キリストにあって」という一句を入れることによって、神の前においてゆるぎなさをもって立つことができるからです。
  • だれがなんと言おうとも、だれが非難しようとも、私は、神の前に、キリストにあって、罪赦された者、義なる者として立つことができ、神の子どもとしての特権を主張することができるからです。私たちは、このキリストにある信仰を堅く保ち、そこに固執して生きる必要があります。しかもそれは決して孤軍奮闘によるものではなく、神の御霊が常により添ってくださることによって可能となることです。ヨブの場合には、そのような神の恵みはまだ与えられていません。しかしそのことが予表されていると考えられます。

2014.6.28


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