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主イエスの友(10) イスカリオテでないユダ①

主イエスの友(10) イスカリオテでないユダ ①

―イスカリオテでないユダの問いかけ―「問いかけシリーズ」(6)

「わたしたち(御父と御子)は、その人の所に来て、その人とともに住む」

三位一体なる神と私たちとの愛の交わりの神秘

はじめに

  • 「良い問いかけは、偉大な真理を引き出す」―「問いかけ」シリーズ第六回目は、イエスを裏切ることになるイスカリオテのユダではない、もうひとりのユダの問いかけです。別名、タダイとも言われるイエスの弟子のひとりですが、その弟子の問いかけとは、ヨハネ14:22にあります。「主よ。あなたは、私たちにはご自身を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」
  • ユダにとって、自分たちにはイエスご自身をはっきりと現そうとされるのに、不信者にはどうしてご自身をはっきりとお示しにならないのか不思議に思ったようです。世に対して直接現わす方が合理的と思えたに違いありません。
  • ここで「現わす」と訳された「エンファニゾー」έμφανίζωは、manifest(Jh;1:31/3/21/9/3/14:21,22), to make apparent, to show,「はっきりと示すこと、明らかすること、はっきりと知らせる」という意味です。
  • ユダのこの問いかけを理解するために、今朝は少々、まわり道をしてみたいと思います。というのは、今朝の話は、1+1+1=1という世界の話になるからです。ここには私たちの想像をはるかに超える愛の世界、生き生きした愛の世界が存在しています。三つの「1」は、それぞれ「御父」、「御子」、「御霊」を意味し、イコール1は、「三位一体の神」を表しています。一つ一つを取り上げていきます。三位格ーラテン語でペルソナ(persona)と言いますが、最後の「a」の文字を取って、英語読みにするとパーソン(person)となります。

    画像の説明

1. 御父

  • 新約聖書で「神」ということばが多く出てきます。ヨハネの有名な聖句「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」という3:16をはじめとして、「神」ということばが使われている場合には、ほとんどの場合、「御父」と言い換えることができます。
    御父とは御子が存在してはじめて理解できることばです。御子なしの御父はありません。逆に御父なしの御子ということばも有りえません。御父とは、御子イエス・キリストの父なる神のことです。
  • 「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(ヘブル1:1)とあります。神は最後の手段として、神の切り札として、ご自身の御子、ひとり子をこの世に遣わされたのです。「御子」、「ひとり子」という表現によって、その方を遣わされた方が「父」であることを、はじめて世に明らかにされたのです。ひとり子の父、すなわち「御父」です。
  • 旧約聖書のイスラエルの歴史において現された神は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」、「全能の神」(エルシャダイ)、「いと高き方」(エルヨーン)、「万軍の主」(ツェバオート)、「主」(アドナイ)、などと呼ばれてきましたが、「終わりの時代」、つまり、救いの歴史のラストステージにおいては、「イエス・キリストの父」、「御父」としてご自身を現されました。それは子なる神、御子イエスを通してです。
  • ところで、「父」とはなんでしょう。「父」とはいかなる存在なのでしょう。「父」の本質とはいったいなんでしょうか。
    日本で「父」といえば、昔は、一家を支えている大黒柱でした。あるいは、道徳的、社会的規範を持つ存在、生き方のモデルでした。しかし、今や日本の父は高度成長社会、競争社会を生きることを余儀なくされて以後、弱い存在になってしまいました。会社のひとつの歯車的存在にしかなれなくなってしまったからです。家庭は単なる父が疲れて休む場所になってしまいました。母は子どもに家にいる疲れた父の姿を見せて、「あんな父さんのようになっていけないよ。」、もっと偉くなってと諭してしまうような時代になってしまいました。そして、「父親不在という社会」が生まれたのです。
  • しかし、聖書における「父」は全く違います。讃美歌の中に「#すべてのことが神から始まる。そして神により、神へと至る。」というのがあります。この曲は実にきわめて壮大な神への賛歌です。ここで「神」と歌っていますが、実は「御父」その方を意味しています。つまり、御父からすべてのことがはじまっているのです。「すべてのことが」です。見えるものも見えないものもすべて含めた存在のはじまり、いのちのはじまり、歴史のはじまり、すべてのかかわりのはじまりーそのルーツが御父ご自身なのです。御父からはじまり、御父によりなされ、やがて御父へと戻っていく。その知恵と知識は海よりも深く、そのはからいは計り知れないほどです。
  • アブラハムは「信仰の父」と言われますが、その「父」という意味は、神を信じる信仰者としての最初の存在、意味ある存在としてのスタートとなったという意味です。民族のルーツとしての「父」、信仰者のルーツとしての「父」を意味します。しかし「父なる神」はそれ以上に、根源的な存在です。いのちを生み出す原初的な存在、すべてのかかわりを造られた源としての存在―それが「父」という存在です。
  • と同時に、この御父はー御子を通してですがー、ご自身が造られたすべての者に対して、常に、良いものを与えることを喜びとされる存在なのです。この父を私たちにはっきりと示すために遣わされたのが御子です。「ひとり子」とは御父にとって特別な存在です。ですから、そのひとり子であるイエス・キリストを正しく知ることが、父なる神が如何なる方を知ることになるのです。

2. 御子

  • 「いまだかつて神を見たものはおりません。しかし、父のふところにおられるひとり子としての神が、父を説き明かされた」(1:18)のです。それゆえ、イエスは「わたしを見た者は父を見たのです」と言われました。なぜなら、それは「御父が御子におられ、御子が御父にいる」というかかわりを持っておられたからです。この父と子の関係の極めつきの表現は、ヨハネ10:30にある「父とわたしはひとつ」に集約されています。それは愛の一致であり、しかも永遠に存在している愛の一致です。そこにはゆるぎない信頼があります。
  • 御子である方は、神であられる方であるにもかかわらず、神の立場に固執することなく、執着することなく、むしろ、それを捨て、自分を無にして、しもべのように仕える者の姿を取った人となられました。御父に対して、すべてにおいて、信頼と従順の立場を取られました。強制的にそうされたのではありません。自らその立場を取られたのです。その従順は実にこの世においても最も恥辱とされた十字架の死にまでも従われたのです。その完璧な従順、その完璧な父への信頼のゆえに、人間を救う完全な完璧ないけにえとなられました。それゆえ、父はイエス・キリストを死からよみがえらせ、高く上げて、すべての名にまさる名―すなわち「イエスの御名」という名前を与えられました。この「イエスの御名」こそ、私たちを御父の家に永遠に住まわせることのできる方なのです。
  • 「御父のふところにおられたひとり子としての神」が、私たちに御父を知らしめることができるのは、御子イエスが自分自身を通して御父を示すために、自分を捨てて、御父のうちにとどまったがゆえに、はじめて御父のことば、御父のみこころを私たちに示すことができたのです。それゆえ、イエス・キリストが語ったことばは御父のことばです。イエス・キリストのなさった愛のみわざは御父のわざそのものであることができたのです。これは不思議なことであり、簡単なことではありません。私たち人間の世界でこうしたかかわりを持つことは不可能です。似たもの夫婦ということばがありますが、妻の語ることばが夫のことば、妻のすることは夫のすること行為ということはなかなかみられません。似た者夫婦といえども、どこかで「あなたと私は違うのよ」というのを見せつけられてしまいます。
  • イエス・キリストが語ったことばは御父のことば。イエス・キリストのなさった愛のみわざは御父のわざそのものであるということを、イエスは「わたしが父におり、父がわたしにおられる」(ヨハネ14:10)という言い方で表現されたのです。そしてイエスは繰り返し、「わたしが父におり、父がわたしにおられる(live/μενω)と言うのを信じなさい。」と語っておられます。

3. 御霊

  • さて、「わたしが父におり、父がわたしにおられる」というのは、御父と御子との関係であり、そこには揺ぎない永遠の愛による一致があります。その愛の一致というかかわりに、私たちはだれひとりとして容易に関与することができないほど、親密な関係をもっておられるのです。しかし、御子であるイエスは御子と御父にある「永遠のゆるぎない愛のかかわり」―すなわち、「わたしが父におり、父がわたしにおられる」という愛のかかわりに私たちを招くために、御子は御父にお願いをいたします。すると父は、「もうひとりの助け主」をお与えくださいます。いや、もうすでに与えてくださっています。この時点ではまだでした。この「助け主」によって、私たちははじめて「御子と御父との永遠の愛の中に招かれ」ます。それが「永遠のいのちを得る」ということです。それは「救い」を意味します。
  • 「助け主」と訳されたことばは、ギリシャ語で「パラクレートス」です。聖書の脚注を見ますと、「援助のためにそばに呼ばれた者、とりなしてくれる方」とあります。「パラクレートス」の「パラ」とは、「そばに」という意味。つまり、「私たちの助けのためにそばに」という意味。「パラクレートス」の「クレートス」は「呼ばれた者」という意味です。したがって、「パラクレートス」とは「私たちを助けるために私たちのそばに呼ばれた方」という意味になります。「助け主」と呼ばれますが、17節では「真理の御霊」とも言われています。あるいは「御霊」を「聖霊」とも言います。この方の助けなしに、御父と御子の揺ぎない永遠の愛の中にかかわることはできないのです。そのために御子が御父にお願いをして、私たちに遣わしてくださった方が、「もうひとりの助け主」ということです。
  • 本来、人間に与えられていた神との永遠の愛のかかわりーそれは罪によってひと度失われたのですが、再び、そのかかわりを回復されることが聖書の言う「救い」です。その救いのために備えられた鍵的存在(Key man)こそイエス・キリストです。ですから、救いの最後の切札として御父がこの世に遣わされた御子イエスを私たちが信じることなしには、神との永遠のかかわりを回復することができません。かかわるならば「いのちを得ます」が、かかわらなければ、いのちを得ることは出来ず、「永遠の死を自ら定めてしまう」ことになるのです。そうしたかかわりの決断の助けにおいても、「助け主」の存在が、私たちに必要なのです。
  • 救いのために備えられた鍵的存在(Key man)であるイエスが、御父に特別にお願いをして与えられるこの「助け主」〔パラクレートスπαράκλητος〕について、聖書がどのように記しているかをみてみましょう。14:16, 17を御覧ください。

    (1) いつまでもあなたがたとともに〔メタμετα、間に〕おられる(14:16)

    (2) あなたがたとともに〔パラπαρ、そばに、傍らに、近くに〕住み(live, μενω)、あなたがたのうちに〔エンέν、中に〕おられる(14:17)

  • それゆえ、イエスを信じて神の子どもされた私たちは、決して、見捨てられて孤児になることはあり得ないのです。なぜなら、私たちに与えられる「助け主」である真理の御霊、聖霊がおられて、この方が私たちの「間に」、私たちの「そばに」、そして私たちの「うちに」おられることによって、先程、イエスが言ったように、「わたしが父におり、父がわたしにおられる」だけでなく、「あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたに分かります。」(14:20)ということが可能となるのです。
  • 助け主である御霊がおられることで、「御父と御子の愛のかかわり」だけでなく、「御子と私たちとの愛のかかわり」が「分かる」のです。「分かる」というのは「知る」という「ギノースコー」という動詞ですが、それは単に頭で理解できるということではなく、信じることができるということを意味します。ヨハネの福音書では、「分かる」(知る)という動詞「ギノースコーγινωσκω」と、「信じるπιστενω」という動詞はほとんど同義語として使われています。ですから、「分かる」とは、「信じられるようになる」という意味です。
  • 聖書というのは、同じ真理をいろいろな言葉で表現されます。このことをまず知っておくことが大切です。同じことを別な言葉で表現しようとする。これはユダヤの独特な修辞法のひとつで、パラレリズム(並行法)と言います。
  • イエスの愛が分かる、信じられる、感じられる。これは私たちの側の感覚ですが、そのことを神の側から言い方をすると、14:21にあるように、「わたしの戒めを守り、わたしを愛する者に、・・・わたし自身を現わします。」という表現になります。「現わす」とは「はっきりと示すこと」、英語では、マニフェスト(manifest)、あるいは(show)と訳されます。
  • 「神との友情」という本を書いたフーストン師は、「聖霊が私たちの友となられる主な目的は、父なる神と子なる神とのより深い交わりに私たちに与えることです。」と述べています(「神との友情」148頁)。聖霊は私たちの内に住まわれます。そのとき初めて、霊的生活は現実的で意味のあるものとなり、私たちを造り変えます。聖霊は私たちを神により近く引き寄せでくれます。そのプロセスに終わりはありません。なぜなら、聖霊は私たちから去られることはないからです。内に住まわれる聖霊は、神の臨在を私たちのあらゆる現実において、神の臨在を味わわせるために働いておられます。

4. イスカリオテでないユダの質問の意図は何か

  • 大変な回り道をしてしまいましたが、ここからが、今朝の「問いかけ」シリーズの第6回目の弟子ユダの質問に戻りたいと思います。今回の問いかけからどんな真理を見出すことができるでしょうか。もう一度、14:22をみてみましょう。
    「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」
  • ところで、この質問の意図はなんでしょうか。イエスの答えはこうです。16:23「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。(ですから、「わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住む」ということはできません。) 」それゆえ、世には親しい愛のかかわりを現わすことができないことを暗に答えています。
  • すでに、イエスはご自身の愛をどのようにして世に現わそうとされるのか、そのプロセスについてはすでに語っています。その箇所は13:35です。「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」とあります。これが御子と御父の愛、そしてその愛の中に弟子たちが招かれて、お互いの間に愛を示すことによって、はじめて世がそれを認めるということです。ですから、「御父と御子の間にあるような愛がイエスの弟子たちーつまりクリスチャンたちの間にあるかどうか、そのしるしがあるかどうかが問われています。
  • 同じことがヨハネの17章でも語られます。そこでは、御子イエスが御父に祈っています。「御父が御子におられ、御子が御父にいるように、つまり、御父と御子がひとつであるように、弟子たちもみな一つであること」を祈っているのです。その目的はなにかといえば、23節にはっきりと述べられています。それによればこうです。「それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らを愛されたこととを、世が知るためです。」と。
  • この世は、イエスのことばーつまり、神を愛し、人を愛するという新しい戒めーを守らなくても、クリスチャンに対する眼は厳しいものがあります。クリスチャン同士が、あるいは教会同士が争っているのを見て、そこに神の愛を感じられることがないならば、自分たちを棚において、神の愛など信じられないということが言えるのです。ですから、神は、主を信じる者たち同士が互いに愛し合うことを通して、はじめて神が愛なるお方であることを示すように求めておられるのです。その意味では、世には直接、神は「ご自身の愛を現わされないのです。」これがイエスの答えでした。
    「わたしたちーつまり、御父と御子―はその人のところに来て、その人とともに住みます」という祝福―岩波訳では「私たちは彼のところに来て、彼のもとに住処(すみか)を設けることとなる。」と訳していますー。We make our home with him.
  • イエスが言われた「わたしの戒め」とは、「互いに愛し合う」という戒めです。御子イエス自身も「わたしが父の戒めを守って、私の父の愛の中にとどまっている」(15:10)と言っています。「お互いに愛する」という戒めを守り、それを保ち、それを生きることーこれは御父と御子の間に、あるいは三位一体の神の愛の交わり(フレンドシップ)にその源泉があります。
  • 「それ(わたしの戒め)を守る人は、わたしを愛する人です。」というのは、イエスを愛すること、人を愛することは、密接な関係をもっているということです。イエスを愛する人は、御父からも、そして御子イエスからも愛されますが、イエスの答えの中にある「わたしたちーつまり、御父と御子―はその人のところに来て、その人とともに住みます」(14:23)ということばの意味を、最後に考えてみたいと思います。
  • 英語では、My father will love him, and we will come to him and make our house with him.
    永遠の愛のかかわりをもっておられる御父と御子が、御子を愛し、その戒めを守る人のところに来て、その人と家を共にする、つまり一緒に住むということになります。「住処を設ける」「愛のホームを造られる」というのです。そのことを信じられますか。
  • 14:16,17で「助け主」である御霊が与えられると、この方が私たちの「間に」、私たちの「そばに」、そして私たちの「うちに」おられることによって、「御子が御父におり、御父が御子におられる」ということだけでなく、私たちが御子におり、御子が私たちにおることが分かる」とありましたが、これは、御父と御子が私たちと家を共にするということと同じことを意味しています。
  • するとどういうことになりますか。助け主である御霊が私たちに与えられて、私たちの間に、私たちのそばに、そして私たちのうちにいるということと、御父と御子が私たちとともに住むということがイコールということになります。
  • 御霊は御父からも御子からも遣わされる方として表現されています。その御霊が私たちのうちに宿っておられる(とどま.る)ことと、御父と御子が私たちとともに住むこととはイコールなのです。ここで大切なことは、聖霊を通して、それがなされるのではありません。御霊が私たちのうちに宿っておられることと、御父と御子が私たちとともに住むことが、同時に起こっているのです。つまり、三位一体の神が私たちと住まいを同じくしているという霊的現実が起こるのです。神と共に住むことで、私たちは神の愛というゆるぎないかかわりの中に生かされているということを日増しに体験していくことができるのです。そのことを通して、神はこの世にご自身の愛を現わそうとしているのです。この点は私たちが繰り返し、失敗しているところでもあります。ですから、繰り返し、悔い改めて、神がしてくださったこと、そしてそれが今もなお継続してなされているところにいつも立ち返ることが求められています。神のゆるぎない愛を信じて、その愛の中に生きることが、私たちのなすべき最も大切なことなのです。

おわりに

  • 三位一体なる神のゆるぎない永遠の愛の交わり、そこに私たちかともに住むことがすでに可能となっています。これが聖書のいう「福音」であり、「良き訪れ」です。このように見てくると、御父だけが強調されたり、御子だけが強調されたり、聖霊だけが強調されたりするのは、おかしいことに思えてきます。
  • 三位一体なる神は、図などでは本来表せるものではありません。それは、1+1+1=1の世界で、理性的には説明しきれません。理性的には決して受け入れられないことですが、この神の世界の事実を、ありのままに受け入れ、信じなければなりません。
    もし、私たちが(あなたが)、この事実をありのままに受け入れ、信じることができるならば、神とともに生きる世界、神の愛にいつも生かされて生きる、そんな祝福に満ちた歩みが私たちに与えられ、備えられ、保障されるのです。
  • 私たちが今日、心に留めるべきことは、三位一体の神との交わりを通して、私たちの心の土壌が神の愛によって豊かにされることです。愛された者はどんなときにも自分に自信をもって生きる力が与えられます。それゆえ、神は私たちに、神との愛の絆を強めるために日々かかわっておられるのです。そのことを私たちが意識して生きるとき、私たちのうちに神がおられることがなんらかの形で現わされて来るのではないでしょうか。
  • 日々「キリストのうちにとどまる」という生き方を通して、多くの実りを得られるのです。そして、「まさかこの私が・・・のようになるとは、思っても見なかった」という良い意味での驚きが、その人の人生において現されるようになるのです。


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