****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

供えのパンとそれを置く金の机

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9. 供えのパンとそれを置く金の机

【聖書箇所】出エジプト記25章23~30節、レビ記24章5~9節

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ベレーシート

  • シリーズ「神の御住まい」についての第八回目の学びです。今回から幕屋における「聖所」(「ミクダーシュ」מִקְדָּש)の中に置かれている三つの器具(「供えのパンの机」、「燭台」、「香壇」)について順次取り上げていきます。「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。」(出エジプト25章8節)ということが幕屋の建造の目的ですが、その目的が実現されるためには、聖所におけるすべての器具が象徴していることを知る必要があるのです。それらはすべて神の御子イェシュアを指し示す型となっています。
    聖所における机.JPG
  • 幕屋の北側と南側の壁板、そして三つの器具はすべて金で覆われています。今回はその中の「供えのパンの机」(The table of showbread)について取り上げます。「供えのパン」と訳されたヘブル語は「レヘム・パーニーム」(לֶחֶם פָּנִים)で、パンが絶えず主の御前に置かれていることを意味します。「供えのパン」と、それを置く「机」に関する記述は以下の箇所です。

【新改訳改訂第3版】出エジプト記25章23~30節
23 机をアカシヤ材で作らなければならない。長さは二キュビト、幅は一キュビト、高さは一キュビト半。
24 これを純金でかぶせ、その回りに金の飾り縁を作り、
25 その回りに手幅のわくを作り、そのわくの回りに金の飾り縁を作る。
26 その机のために金の環を四個作り、その四隅の四本の足のところにその環を取りつける。
27 環はわくのわきにつけ、机をかつぐ棒を入れる所としなければならない。
28 棒をアカシヤ材で作り、これに金をかぶせ、それをもって机をかつぐ。
29 注ぎのささげ物を注ぐための皿やひしゃく、びんや水差しを作る。これらは純金で作らなければならない。
30 机の上には供えのパンを置き、絶えずわたしの前にあるようにする。

  • 「机」と訳された「シュルハーン」(שֻׁלְחָן)は、食卓、あるいは卓台(岩波訳)とも訳されます。その初出箇所は上記の聖書箇所にある出エジプト記25章23節です。出エジプト記だけでも18回使われています(出25:23, 27, 28, 30/26:35, 35, 35/30:27/37:15, 16/39:36/40:4, 22, 24)。
  • 25~28節に言及されている「机」と、30節に言及されている「供えのパン」について個々に取り上げたいと思いますが、29節で言及されている「注ぎのささげ物」(ぶどう酒、油)に関係する四つの器具(皿、ひしゃく、びん、水差し)は、「供えのパン」と連動しています。パン以外に、机の上に置かれるのは以下の四つの器具です。すべて金で作られ、しかも複数形で記されています。

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①「パンを置く皿」(dish)・・ 「ケアーラー」(קְעָרָה)
②「乳香を置く柄酌」(pan)・・「カフ」(כַּף)
③「注ぎのささげ物を入れる瓶」(jar)・「カスヴァー」(קַשְׂוָה)
④「水差しの鉢」(bowl)・・・・「メナッキート」(מְנַקִּית)

  • 「パンとぶどう酒」といえば、最後の晩餐、聖餐式をイメージしますが、それらは神の御子イェシュアを指し示しています。まずは、「机」(食卓)について記されている概要を見てみましょう。

1. 机(「シュルハーン」שֻׁלְחָן)の概要

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  • 「机」はアカシヤ材で作られ、その上に純金がかぶせられています。アカシヤ材は虫のつかない丈夫な木材です。それはイェシュアの人性を表わしており、その上に純金を被せていることでイェシュアの神性を表しています。「机」の高さは、至聖所にある「契約の箱」と同じ高さ(1キュビト半)ですが、長さは2キュビト、幅1キュビトとなっています。右上図は1キュビトを45.6cmとしています。

(1) 24~25節の解釈 

  • 24~25節の「・・その回りに金の飾り縁を作り、その回りに手幅のわくを作り、そのわくの回りに金の飾り縁を作る」(新改訳)とあります。ここに記述されているのはどのようなイメージでしょうか。幕屋における一つひとつのデザインの中にも神の啓示が隠されているため、このことを知ることは重要です。ところが、24~25節に記述されていることをイメージすることがとても難しいのです。今日、インターネットを通して幕屋についての多くのレプリカ(模造品)を見ることができます。しかし、それらのレプリカにはそれぞれ微妙な違いがあります。特に、装飾部分がそうです。「机」で指定されているのは、その回りに「金の飾り縁を作る」とあるのですが、さらに「手幅のわく」を作ることが指定されています。
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  • 「手幅」と訳された原語は「トーファハ」(טֹפַח)で、単数形で示されていることから、1トーファハという「幅」の単位を意味します。それは「手のひら一つ分」、つまり人差し指から小指までの幅で約7.5cmです。それが、「わく」の幅(あるいは高さ)を表わす寸法なのか、あるいは、内と外の二つの「わく」があって、その間の距離を表わす寸法なのかがはっきりしません。そのため、この「手幅のわく」には二つの解釈があります。
  • 一つは、右の上図のように、「わく」自体の幅(あるいは高さ)を表わすという解釈で、手幅の枠の飾り縁と、それとは別にもう一つの飾り縁が下にあるという解釈です。

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  • もう一つの解釈は、右の下図のように、「わく」と「わく」の間の距離を表わすという解釈です。つまり、手幅の枠の飾り縁と、それとは別にもう一つの飾り縁が内側にあるという解釈です。
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  • 「わく」のことをヘブル語で「ミスゲレット」(מִסְגֶּרֶת)と言いますが、これを一つの「王冠」(Crown)と解釈することで、「供えのパン」の机の回りが王冠を表わす「金の飾り縁」が施されていると解釈をします。そして手幅の距離に、もう一周、同じく王冠を表わす金の飾りが施されていると解釈します。その解釈における重要な点は、机の周囲には王冠の「飾り縁」が手幅の間隔で二重になっていることです。そしてその意図することが何かということが重要なのです。
  • 二つの解釈のうち、後者の解釈に立つならば、内側の「金の飾り縁」はユダヤ人の王であるイェシュアを表わし、外側の「金の飾り縁」は異邦人の王であるイェシュアを表していると解釈することが可能です。つまり、パンの机において王冠の飾りが二重になっていることで、主の食卓に招かれているのは、ユダヤ人のみならず、異邦人も含めた両方であるということを示唆していると言えます。幕屋に掛ける四枚の幕のうち、内側の二枚の幕について、いずれも「互いにつなぎ合わせ」て作るよう神が指示していることを学びましたが、そのことを考え合わせるならば、後者の解釈が妥当だと考えます。
  • ユダヤ人と異邦人の両者は、「新しいひとりの人」(エペソ2:15)として、また神の家族として、共に食卓を囲むことを主は意図しておられるということです。これは「奥義」であって、使徒パウロにはじめて啓示されたものですが、「神の家族」という語彙は、聖書の中でエペソ2章19節にしかありません。また「信仰の家族」という語彙もガラテヤ書6章10節のみです。
  • つまり「机」が啓示していることは、主にある「神の家族」が、共に、天における主の食卓を囲むということなのです。神のマスタープランの視点から見るならば、ここでの神の家族はイェシュアをメシアと信じる者たちであり、それは「キリストの教会」とも、「キリストの花嫁」とも言い換えられます。さらには、終わりの日には「残りの民」として全世界から集められるイスラエルの民も加わって、主の食卓に着くことになります。その食卓に「供えられたパン」が置かれているのです。

(2) 「供えられたパン」について

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  • 供えのパンについては、レビ記24章5~9節に記されています。「机」(「シュルハーン」שֻׁלְחָן)は、「主の食卓」を象徴し、その上には「供えのパン」(輪型のパン)が置かれます。

【新改訳改訂第3版】レビ記24章5~9節
5 あなたは小麦粉を取り、それで輪型のパン十二個を焼く。一つの輪型のパンは十分の二エパである。
6 それを【主】の前の純金の机の上に、一並び六個ずつ、二並びに置く。
7 それぞれの並びに純粋な乳香(לְבוֹנָה)を添え、【主】への火によるささげ物として、これをパンの記念の部分とする。
8 彼は安息日ごとに、絶えずこれを【主】の前に、整えておかなければならない。
これはイスラエル人からのものであって永遠の契約である。
9 これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、【主】への火によるささげ物のうちから、彼の受け取る永遠の分け前である。」

  • 乳香」を意味する「レヴォーナー」(לְבוֹנָה)―その初出箇所は出エジプト記30章34節、レビ記では2章1, 2, 15, 16節)―は、「パンの記念の部分」とあるように、パンを神にささげたことの象徴として乳香だけが焼かれ、パンそのものは後に祭司のものとなりました。供えのパンは安息日ごとに新しいものと取り替えられ、絶えることなく机の上に置かれました。祭司たちだけがこのパンを食することができましたが、祭司は神の民を代表しているということを知ることが重要です。なぜなら、すべての神の民が供えられたパンを食することになることを象徴しているからです。
  • 上質の小麦粉で焼かれる「パン」(「ハッラー」(חַלָּה)のことを、「輪型のパン」(新改訳・新共同訳)と訳しています。あるいは「菓子」(口語訳)、「ケーキ」(岩波訳)とも。「輪型のパン」は「供えのパン」として、安息日ごとに、絶えず主の前に整えで机の上に置かれました。

2.「供えのパンの机」に象徴されていること

  • 聖所にある「机」の上に置かれるのは「供えのパン」です。同時に、「注ぎのささげ物であるぶどう酒」とかかわりのある器具が言及されていることから、「ぶどう酒」も含まれていると考えられます。それは「わたしがいのちのパンです」(ヨハネ福音書6:35)と自己宣言されたイェシュアが、同時に、「このパンを食べ者は永遠に生きる。」(同、6:58)と言われました。その「パン」の中にイェシュアの肉と血が含まれているのです。つまり、「パンであるイェシュア」を食べることは、すなわち、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」なのです。その者はイェシュアのうちにとどまり、イェシュアもその者のうちにとどまるということが実現します。したがって、聖所に置かれている「供えのパン」とその「机」は、永遠の神との交わりを象徴しているのです。
  • ヨハネの福音書と共観福音書における「五千人の給食の奇蹟」は、幕屋における聖所の「供えのパンの机」が象徴している注解的出来事(しるし)なのです。「五千人」という数も幕屋の構造の比率を表しています(100×50)。人々がパンを食べて満腹になったあとでも、なお余ったパンで12のかごがいっぱいになったという話も、幕屋における「供えのパン」の数が12個であったことと関係しています。イェシュアはしるしとしての奇蹟のみならず、このしるし(奇蹟)が意味することをカペナウムの会堂で人々に説き明かしたのが、ヨハネの福音書6章26~59節に記されています。最後に、その箇所を読みながら、「主の食卓」の奥深さを理解したいと思います。

ヨハネの福音書6章26~71節
わたしがいのちのパンです

【新改訳改訂第3版】
26 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。・・」

35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」
41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである」と言われたのでイエスについてつぶやいた。

48 わたしはいのちのパンです。
51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
55 わたしの肉はまことの食物わたしの血はまことの飲み物だからです。
56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

59 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。
67 そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」
68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
69 私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」


  • ヨハネの言う「永遠のいのち」とは、永遠における神との交わり(神の家に共に住むこと)を意味します。それは「エデンの園」の回復を意味します。そのためには、人の子の肉を食べ、その血を飲むことが不可欠です。つまりそれは、人の子であるイェシュアを「信じること」を意味します。これが「神のわざ」なのです。しかもここの「神のわざ」は単数形で書かれています。一方、イェシュアにつまずいたユダヤ人たちは、「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか」と尋ねていますが、そこでの「神のわざ」は複数形です。神が遣わされた者を信じること、これが、朽ちることのない食物、いつまでも保ち、永遠のいのち、神の永遠における親しい交わりへと至る食物なのです。
  • イェシュアの語る話が、より深く、より永遠の核心的な内容になってくるにつれて、群衆やユダヤ人、そして多くの弟子たちさえもイェシュアのことばにつまずきました。そして「離れ去り、もはやイェシュアとともに歩かなかった」のです。イェシュアはそんな彼らを決して追うことはしていません。なぜなら、「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:14)と語っているからです。まさにイェシュアが言われたように、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』のです。これらのイェシュアのことばには、人間的な説得や心情をはさむ余地など全くないことを突き付けられます。それゆえ、私たちは今一度、主の食卓に招かれたことを軽視することなく、ますます感謝の思いをもって、神の深いご計画とみこころを、その御旨と目的を知ることを尋ね求め、そのことを悟る者とさせていただきたいと思います。

2016.5.7


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