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信仰と不信仰の狭間

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5. 信仰と不信仰の狭間

【聖書箇所】創世記 16章1~16節

はじめに

  • 信仰によって生きるとはどのような生き方なのかを学ぶために、信仰の父と言われるアブラハムの生涯を取り上げています。今回の箇所には、アブラムが信仰における大きな失敗を経験したことが記されています。失敗のない人生、失敗のない信仰生活はあり得ません。「失敗は成功のもと」という格言があるように、私たちは多くの失敗の痛みを通して、多くのことを気づかされ、より大きく成長させられていくのです。失敗は決して恥ずかしいことではありません。むしろ失敗を通して何を学んだかが大切なのです。
  • アブラムの信仰の生涯全体(まだ学びの途中にありますが)を考えてみると、彼に対する神の教育的プログラムの中に失敗の経験が無駄なく組み込まれているように見えます。だからといって、失敗を奨励するわけでは決してありませんが、事実、アブラムはここでの失敗によって13,~14年間、神から語りかけられるということがありませんでした。それはアブラムにとっての暗い時期でした。失敗それ自体は辛く痛い経験ですが、私たちはここでむしろ、失敗をも益と変えて、アブラムを「信仰の父」として導かれた神の恵みと真実に目を向けていく必要があります。そうしたことを念頭に置きながら、創世記16章でアブラムがなぜ失敗することになったのか、その失敗の問題点を明らかにしながら、いくつかのことを私たちの教訓として学びたいと思います。

1. 不信仰とその結果(1~6節)

(1) 信仰の試練・・「待つ」という忍耐

  • 前章(15章)でアブラムは神の約束を信じたことによって、神から義と認められました。彼はまだ一人の子もいないのに、「あなたの子孫は星の数ほどになる」という神の約束を信じたのです。しかし、信じることとその実現を静かに待つということは全く別の問題のようです。
  • 約束はなされたものの、その約束がすぐには実現されず、子どもは生まれませんでした。このような時に私たちは二通りの方法で対処しようとします。ひとつは主を信頼して主の約束の時を忍耐強く待つという方法であり、もうひとつは「ただ祈って待っているだけでなく、自分でも知恵を用いて何らかの具体的な行動を起こさなければならないのではないか」と考えて行動してしまう方法です。アブラムとその妻サライとは後者の方を選びました。私たちは、本来、「待つ」という状態を嫌います。待つ状態に置かれることに耐えられず、行動してしまいやすいのです。ここに神の約束を祈って待つということの難しさがあります。
  • この「待つ」というのは信仰の試練(テスト)です。その人の信仰が本物であるかどうかは、さまざまな試練を耐え抜くかどうかで評価できます。イェシュアは「種を蒔く人のたとえ話」をされました。蒔かれた種のあるものは道端に、あるものは岩地に、あるものはいばらの中に、あるものは良い地に落ちました。イェシュアはこのたとえ話の種明かしをされるのですが、道端とは信じようとしない堅い心、神のことばを聞いても心を開かないためにサタンがその種を持って行ってしまい、実を結ぶことができないのです。また岩地やいばらの地とは、最初はすばらしく反応して多くの収穫が期待されたにもかかわらず、いろいろな試練や誘惑、困難に遭遇するとすぐに挫折してしまう心のことを言っています。特に、信仰生活を始めた時は一瞬のうちにすべてが与えられるように思ってしまいます。ですから、もし手に入らない、思うようにならないことがあると、不機嫌になり、いら立ち、不平となってしまうのです。
  • 信仰が本物であるかどうかを示すバロメーターは忍耐力、耐え忍ぶ力です。つまり、何事が起こっても、起こらなくても、常に平静な心で物事に対処できることは、非常に優れたキリスト者の資質と言えます。あるいは、物事が自分の思うように進まなくても、「神は私にとって何が最善であるかをよく知っておられる、その神に私は信頼して行きます」という姿勢で前向きに生きる忍耐力です。神の約束が実現するためには、神の時と神の方法によらなければならないのです。神には神ご自身の約束を実現するために、神ご自身の方法と時があるからです。

(2) 人間的な画策・・常識的な考え

  • ところがサライは神の約束を待つことができず、人間的な計画を立てて、神の手助けをしなければならないと考え、夫アブラムに次のように提案しました。2節「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。」・・・あなただって知っているでしょう。私に子が生まれないのは主のみこころなのです。主が子どもを与えると約束したけれども、それは自分の子どもでなくてもと彼女は考えたのです。そこで2節の後半で、「・・どうぞ、私の女奴隷(エジプト人のハガル)のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」と提案し、アブラムはその提案を受け入れたのでした。
  • アブラムが主の命令に従ってカナンの地に住むようになってから10年後のことでした。・・そして女奴隷ハガルからイシュマエルが生まれたのです。この時、アブラムは86歳でした。当時はこのような考え方が一般的に認められていたようです。しかもそれは罪とは考えられず、当時の常識的な考えだったようです。アブラムもサライの提案を聞き入れた背景として、まずこの申し出がサライの犠牲的な申し出であったこと、さらには主から「あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」(15:4)と聞いていたので、自分の子であれば、たとえ女奴隷によって生まれた子であっても、主のみこころに反することにはならないのではと考えたのかもしれません。神の約束が実現されるために人間的な方策を考え出したのです。このことはアブラムだけの問題ではなく、私たちにとっても大きな神のチャレンジです。特に、神からの個人的な約束とか個人的な預言が与えられた場合にはなおさらです。神が私たちに約束される場合、その約束が実現される時と方法は神の主権の御手にあるということです。

(3) 不信仰がもたらしたこと・・争い、高慢、嫉妬、無責任

  • 「善かれ」と思ってした人間的な画策が、どのような結果をもたらしたでしょうか。それは決して良い結果ではなかったことが16章に記されています。事態は以前よりも悪くなりました。それまでは、女主人であるサライと女奴隷ハガルとの間に良い信頼関係がありました。でなければサライはやがて自分のものとなる子どもを産ませるために、ハガルを夫に与えるようなことはしなかったはずです。しかしそのハガルはみごもったことで、女主人サライを見下げるようになったのです(4節)。美しいサライに対する妬みもあったのかもしれません。ハガルは自分が女性としてサライよりもすぐれていると思うようになり、横柄な態度を取るようになってしまったのでした。不信仰による行動の結果は想定外の問題を引き起こしたのです。
  • サライはハガルの横柄な態度に耐えられず、アブラムにそのことを訴えました。サライは自分の提案の結果を刈り取っただけのことでしたが、アブラムは責任をもってこの問題を解決しようとせず、「あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」と言って、無責任にもこの問題から逃れようとしました。女奴隷の自分を見下げた横柄な態度に腹を立てたサライは、平静さを失って、彼女をいじめたのです。そのいじめに耐え切れずに、ハガルはサライのもとから逃げ去ったのでした。
  • 私たちはこの話から、アブラムとサライとが神を信頼せずに、人間的な画策に頼ろうとしたことでかえって悲劇をもたらすことになった事実を深く考えなければならないと思います。聖書は教えています。

【新改訳改訂第3版】箴言3章5~6節
5 心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。


2. エル・ロイ(私を見られる神)の憐れみ(7~14節)

  • さて、この16章において、もうひとつの物語であるハガルに対する神の憐れみについて考えてみたいと思います。

(1) 主の問いかけ

  • 女奴隷ハガルは、ある意味で犠牲者であると言えます。サライが自分に代わってアブラムの子を産みなさいと言わなければ、ハガルはいつまでもサライの奴隷として平穏無事な生活を送ることができたはずです。はた迷惑なのはハガルの方でした。彼女は全くサライの犠牲者と言っても過言ではありません。しかし、彼女も高慢の罪ゆえに、サライのもとから言わば追い出されるはめになってしまいました。そんな彼女に主は何をなされたでしょうか。彼女が荒野をさまよい、シュルの道(エジプトに通じる地域)の泉のほとりに来た時、主の使いが現われ「あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねました。この種の問いかけ、すなわち、「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」という問いかけはとても意味の深い問いかけです。この問いに対してハガルは「女主人サライのところから逃げているところです。」(8節)と答えましたが、「どこへ行こうとしているのか」については確信をもって答えることができませんでした。天の使いの問いは「あなたがこれから向かって行こうとしているところは、本当に希望のある道なのかどうかをよく考えなさい。」というものです。
  • 私たちは何か自分にとって辛いこと、不都合なことが起こった時、そこから逃れようとしやすい者です。問題や困難から逃れようとしてしまうのです。詩篇の中にも似たような思いが描かれている詩篇があります。

【新改訳改訂第3版】詩篇55篇6~8節
6 そこで私は言いました。「ああ、私に鳩のように翼があったなら。そうしたら、飛び去って、休むものを。
7 ああ、私は遠くの方へのがれ去り、荒野の中に宿りたい。 セラ
8 あらしとはやてを避けて、私ののがれ場に急ぎたい。」


  • この詩篇の作者も私たちと一緒です。しかし問題はそうすることで決して解決しないということです。逃避することでは何の益をももたらさないのです。目先の苦しみを避け、できるだけ都合の良い生き方を求めるのは私たちの常です。暗いところを避け、明るい方へと逃げたくなるのはだれもが持つ衝動です。ハガルも例外にもれず、できるだけ早く女主人のもとから離れ、そこから逃げたのです。しかしそんな彼女に主の御使いは言いました。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」と。つまり、あなたとあなたの胎内の子が主の祝福を受ける道は、女主人のもとに帰って、そこで身を低くすること、つまり謙遜に女主人に仕えることこそがあなたにとって真の解決であり、主のみこころだと教えたのです。
  • 「帰って、身を任せなさい。」このはっきりとした命令は、実は私たちに適用されるものではないかと思います。何度も言うように、私たちはハガルがしたようなことをしやすいのです。私たちに割り当てられた仕事が困難であり、負うべき十字架が重いと、我慢できなくなり、プライドが傷つけられ、その場を逃れ去って行くのです。私たちは神からの訓練を避け、困難を離れて、自分自身がしたい道に進もうとします。しかし、そのようにしては決して神との正しい関係に入ることができないのです。へりくだって、神が私たちのために定められた持ち場を受け入れなければならないのです。そのことによって、逃れようとしたことを克服し、それを征服することができるのです。主の御使いが語った命令、「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」(9節)には約束が伴っています。その約束とは「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」(10節)というものです。

(2) ハガルの神との初めての出会い

  • 主の使いに対するハガルの応答はどうだったのでしょうか。彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ」と呼びました。これは「ご覧になる神」、「私を見ていて下さる神」という意味です。彼女は女主人の冷酷な扱いと荒野での孤独と先行きの不安の最中で、自分を見ていて下さる神に出会うことが出来たのです。涙の谷の経験の中で初めて個人的に神に出会ったのです。彼女は神の前に砕かれています。
  • 目まぐるしい日常の歩みの中で、どんな状況の中にあっても、へりくだって、「神はここにおられる、神は私の近くにあってくださる。私の必要を備え、守り、導いてくださる方がここにおられる」と言える者は幸いです。

2017.6.14


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