出エジプト記3章14節
出エジプト記3章14節 אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶהについて
- この出エジプト3章14節はまことに不思議なことばです。その一つに発音表記のことがあります。新聖書註解(いのちのことば社)の出エジプト記を担当された西満氏と同じくヘブル語の専門家である雨宮慧氏は「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」、鈴木祥一郎氏とミルトス社の聖書対訳は「エヒイェ・アシェル・エヒイェ」と表記されています。フランシスコ会訳では3章14節についてかなりの分量の註解が記されていますが、それには「エーイェ・アシェル・エーイェ」と表記されています。英語表記では、’ehyehとなりますが、子音הְの下に「シェヴァー」(שְׁוָא)があるために様々な表記を可能としています。つまり、הְを「へ」と表記するか「ヒ」と表記するか、それとも「ー」と表記するか何も発音しないかの違いです。私的には何も発音せず「エイェ・アシェル・エイェ」と表記しています。
- 次に、אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה の翻訳についてです。
新改訳 「わたしは、『わたしはある』という者である。」 新共同訳 「わたしはある。わたしはあるという者だ。」 口語訳 「わたしは有って有る者。」 岩波訳 「わたしはなる。わたしがなるものだ。」 文語訳 「我は有て在る者なり」 関根訳 「わたしはあらんとしてある者である。」 フランシスコ会訳 「わたしはある〔エーイェ〕ものである。」 新世界訳 「わたしは自分がなるところのものとなる。」 KJV訳 I am that I am NASB訳 I am who I am NIV訳 I am who I am NKJV訳 I am who I am NJB訳 I am he who is Moffatt訳 I will be what I am LXX訳 εγω ειμι ό ωv
- 神ご自身がモーセに語られたאֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה についての妥当と思われる解説を引用したいと思います。引用する文献は、キリスト教図書出版社の「聖書ヘブライ語」第7号、1988.3発行、鈴木祥一郎 「旧約聖書の神」87~88頁です。
エヒイェ・アシェル・エヒイェ
אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה
出エジプト記3:14
- 旧約聖書中最も多く論じられてきた箇所のひとつです。אֶהְיֶה‘ehyeはהיהカル1人称単数未完了形、אֲשֶׁרは関係(代名)詞ですから、語形の問題はありません。ところが、この文章が一体何を意味しているのか、どう訳すべきなのか、ということになりますと、研究者の間でさえ一致した意見はありません。動詞הָיָהは「・・である」なのか「・・になる」なのか、この未完了形は意志、継続、未来、その他、どのように解すべきなのか、関係(代名)詞אֲשֶׁרの働きはどうか、などの問題は未だに未解決である、と言ってもいいでしょう。今日までに提出されてきている主な翻訳ないし解釈を掲げておきます。
a. 「わたしは存在するものである」. ヤハウェの存在の絶対性を語ることばと解します(七十人訳「エゴー・エイミー・ホ・オーン」εγω ειμι ό ωv)
b. 「わたしはなろうとするものになる」。ヤハウェの絶対的自由意志が語られている、と解します。
c. 「わたしは『わたしである』である」。 神の名を問うモーセの問いに直接解答を避けた表現だ、と見られます。
d. 神の名יהוהの語源説明で、これが動詞היהの3人称男性単数未完了יִהְיֶהに由来することをאֶהְיֶהによって示唆している、という解釈。- この他にも、例えば、ヘブライ語動詞היהは単なる「存在」だけではなく、「働き」をも示すから、ここには「働く神」ヤハウェが明かされているとの解釈(e)、このאֶהְיֶהは元来ヒフィル(使役)形であり(「あらしめる」)、ここに「創造の神ヤハウェ」を読み取ろうとする意見(f)、2節前のאֶהְיֶה עִמָּךְ「わたしはあなたと共にいる」(3:12)と同内容の「神とともに」の確約のことばと解そうとする意見(g)、などがあります。
- 今後研究がどんなに進んでも、唯一正しい解釈が決定されることはおそらくないでしょう。そこでこれを無理に一つの解釈におし込めず、色々な解釈が可能なことを承知しながら、אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶהを原文のまま心に留めておきましょう。そもそも聖書の神とは最後のところで人間の理解をこえた存在でしょうから。
- 以上のように、鈴木祥一郎氏が「今後研究がどんなに進んでも、唯一正しい解釈が決定されることはおそらくないでしょう。」と言われるように、まさに聖書の神は「聖」であることを思わせられます。
- 神ご自身がモーセに語られたאֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶהの動詞「ハーヤー」הָיָה未完了形は、ある事柄が継続した状態を表しますので、過去、現在、未来のいずれも用いることができます。その例として、イエス・キリストが「わたしは・・である」というエゴー・エイミーは常に永遠性をもった自己啓示です。黙示録1章4節もそのヒントになります。「常にいまし、昔いまし、後に来られる方」(Him who is, and who was, and Who is to come) 。もう一つ、ヘブル13章8節の「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです。」もヒントになります。西満師は「神の自存性、独一性、永遠性を表わすのに、これほど適切なことばはないであろう」と述べています。鍋谷堯爾師は「『ハーヤー』の未完了形に注目し、私たちの前に置かれている『未完了』の領域が神の主権のもとにおかれ、契約に忠実な神が、人間の側では、予測不可能な将来を引き受けてくださっていることを示す神の名であると考えることができます。」(「創世記を味わう1」、いのちのことば社、173頁)との持論を述べています。
●Jeff A. Bennerは「エヒヤー・アシェル・エヒヤー」。彼のExamining Exodus 3:13-15 from an Ancient Hebrew perspective.
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