****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

原語で瞑想することで、自分をスイッチ・オンしよう !!

20. 原語で瞑想することで、自分をスイッチ・オンしよう !!

はじめに 

  • 連盟の働きで上京するとき、私は必ず一般書店によることにしています。いつも信仰書に囲まれているので、信仰書ではない別の視点からの発想が必要だと感じているからです。7月1日の時には、斉藤孝氏の「『つぶやく』時代にあえて『叫ぶ』」(集英社、2012.5.30発行)という本を買いました。そのプロローグの「自分をスイッチ・オンする動詞を持とう」と題する箇所を読み、驚くとともに大いにうなずきました。それは自分が今やっていること、目指していることと同じだからです。そこにはこう書かれています。「日々、自分の使う言葉、とりわけ動詞にもっと注意を払ってみよう。動詞を意識すると行動が変わり、生き方が変わる。さまざまな動詞の中から、自分にフィットした動詞を見つける。あるいは、自分に足りないもの、こういう要素を見つけたいと思ったら、その動詞を意識して生活するぞと決める。」(10頁)

1.  神のことばの真意のねじれ

  • 神を信じる者にとって、神のことばは力であることを否定する人はいないと思います。神の口から出ることば一つで、自分のたましいをスイッチ・オンにさせられ、生きる力を与えられることも少なくないのです。
  • 詩篇3篇の瞑想のメールを送ってくれた方がいました。その方はその詩篇のキーワードを「伏して眠る」とされました。「伏して眠る」と「臥して眠る」ということばは、「伏す」も「臥す」も読みは同じですが、その意味合いは異なります。前者は前かがみになること、うつぶせになることですが、後者は病気などで横になることです。ちなみに、口語訳聖書は訳語に漢字を使わず、ひらがなで「ふして眠る」と訳していますが、関根訳では「伏して眠る」と訳しています。新改訳と新共同訳ではどちらも「身を横たえて眠る」と訳しています。
  • この方は「キーワード」を「伏して眠る」としたので、「伏す、臥す」ということばを国語辞典で調べることで、ダビデがうつぶせになり、あるいは病気になってもおかしくない状況に置かれて、眠れない日々を過ごしたとイメージされました。聖書で訳されていることばを日本語の辞書で調べて、自分の選んだキーワードをイメージされ、解釈されたのです。従って「ふして眠る」ということばはこの方にとってあまり良いイメージではありませんでした。
  • それでは、詩篇3篇ではどんな原語(へブル語)が使われているのでしょうか。「伏して」という動詞「シャーハヴ」と「眠る」という動詞「ヤーシェン」が重ねられています。二つとも同じ内容の意味を持っており、それを重ねることで、あることが強調されているのです。そのあることとは「安眠」です。この詩篇は自分の息子にクーデターを起こされて都落ちしたダビデがどのようにこの出来事を受けとめたかが記されており、ダビデの霊性を示す重要な詩篇なのです。主を信頼することから来る「安眠」は、次篇の4篇のテーマでもあります(4:8参照)。
  • 神のことばによって瞑想を試みるとき、その訳語によって聖書が本来伝えようとする真意から離れて、解釈のねじれ現象が起こってしまうことがあるのです。新改訳と新共同訳のいずれも「身を横たえて眠る」という訳をしていますが、この表現だけで「安眠」のイメージが伝わってくる人もいれば、伝わってこない人もいるでしょう。真の意味を知れば、「身を横たえて眠る」という訳は名訳だとも言えます。しかし、「ふして、伏して、臥して」の訳ではその真意は必ずしも伝わってきません。私は原語の意味を知れば知るほど、神の霊の息吹によって書かれた神のみことばが、その人に大きな霊的変革をもたらすと本気で考えているのです。隔月に、玉川聖学院の一室をお借りしてもたれている「アシュレークラス」はその取り組みの一環です。

2 . 訳語による混乱

  • 同じ「訳語」であっても、その原語が全く別の言葉であるという例を示すために、有名な詩篇23篇の結論部分を新改訳と新共同訳で見比べてみたいと思います。

【新改訳】 
「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。・・」
【新共同訳】
「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。・・」

画像の説明
  • 「いつくしみと恵み」(新改訳)と「恵みと慈しみ」(新共同訳)。
    言葉の順序が逆になっていると思ってはなりません。順序は変わっていないのです。つまり、新改訳の「恵み」ということばと、新共同訳の「恵み」ということばの原語が異なっているのです。新改訳の「恵み」の原語は「ヘセド」、新共同訳の「恵み」の原語は「トーヴ」です。
  • 「トーヴ」は新改訳では「いつくしみ」と訳します。新共同訳で「トーヴ」ということばは「恵み」と訳しています。新改訳で「ヘセド」ということば「恵み」と訳しますが、新共同訳では「慈しみ」と訳しているのです。全く逆です。新改訳派と新共同訳派の人が互いに同じく「恵み」ということばを使っていたとしても、その意味の違いに気づきません。なぜなら、相手も同じ意味で使っていると思い込んでいるからです。神のことばによって生きようと願うならば、もっともっとことばの意味するところに注意を払ってしかるべきだと考えます。

3. 恐れずに、 原語をカタカナ表記で日常的に使おう

  • 2012年連盟女性会の全国大会北海道集会のテーマは「主のすばらしさ(トーヴ)を味わい、これを見つめよ。」でした。この訳は新改訳です。新共同訳では「味わい、見よ、主の恵み深さ(トーヴ)を」と訳されています。今回は、訳語の混乱を避けるために、神の「トーヴ」という表現で一貫させました。そして「トーヴ」ということばの意味をいろいろな角度から学ぶようにしました。すでに集会に参加された方が、神の「トーヴ」ということばとその意味を知られて、カタカナで外来語を使う感覚で使いはじめているのを見て、私は驚きました。これからの私たちの取り組みの一環として、神のことばー動詞や名詞などーを訳語に固執することなく、そのまま原語を「カナカナ表記で使う」ようにしたらと良いと考えます。
  • 現代は実にさまざまな領域で外来語を訳さずにそのままカタカナ表記で使うことが日増しに増えています。カタカナ辞典を持っていないとことばの意味がよくわからない時代になってきています。それだけ情報がグローバル化しているのです。英語のみならず、イタリア語、オランダ語、スペイン語、ドイツ語、フランス語・・、どこから来たことばかわからなくても、日常用語として多く使っています。クリスチャンたちが、日常的な会話の中に、神が使われたヘブル語やギリシャ語をもっと多く使うべきだと思います。なぜなら、原語のことばはひとつの訳語だけでは表現しきれない内容を持っているからです。ちなみに、ヘブル語の「ヘセド」の新改訳の訳語である「恵み」は、新約聖書で訳されている「恵み」とは内容も異なります。新約で「恵み」と訳されている原語は「カリス」(ギリシア語)で、英語に訳されると「グレース」graceとなります。しかしそれは旧約の「恵み」(ヘセド)とは内容が異なるのです。こういう事実がわかってくると、どちらで使われている「恵み」なのか分からなくなってきます。神のことばの意味をもっと正しく理解して、より意識的に使うことで、そのことばが放つスイッチ・オンの力は随分と異なってくるように思います。意味の逸脱や真意のねじれが起こらないためにも、聖書のことばの原語をカタカナ表記で使うことで、おのずと原語の意味するところを確かめざるを得ない方向へと流れていくと信じます。
  • カタカナ辞典には、まず「カタカナ表記」があり、その後にその原語がなんであるかが表記されています。そしてその後に、その原語の意味がしるされます。「カタカナ辞典」が世に出回るほどに、私たちの生活には外来語と深くかかわらざるを得ない時代に来ています。主を信じる私たちの心が新しくスイッチ・オンする力を得るためにも、また、訳語の囚われ人となることがないためにも、聖書の原語がそのまま日常用語として用いられるべき時代に来ているように思うのです。

2012. 7.15


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