****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

収穫の十分の一をささげる規定

【補完9】収穫の十分の一をささげる規定


【聖書箇所】申命記 14章1~29節

ベレーシート

  • 申命記14章は、イスラエルの民が「主の聖なる民」「宝の民」とされたことによる具体的な生き方の指針が以下のように示されています。
    (1) 食物規定(3~21節)
    (2) ささげものの規定(22~26節)
    (3) レビ人たちを大切にすること(27~29節)

1. 「食物規定」の中に啓示されているイェシュア

  • 1年半ほど前にレビ記の11章を瞑想するまで、「食物規定」の中にイェシュアのことが啓示されていることは知らずにいました。食物規定は健康にかかわる理由で神が定められたとぐらいに思っていましたが、「反芻するもの」「ひづめが分かれているもの」をヘブル語で見ることで、そこにイェシュアが啓示されていることを発見し、大いに驚かされました。それについてはこちらを参照してください。
  • レビ記11章では食べてよいものの動物が記されていませんでしたが、申命記14章には食べることのできる動物の名前が記されています。それは、牛、羊、やぎ、鹿、かもしか、のろじか、野やぎ、くじか、おおじか、野羊です。ここには鹿の類いが五つ登場していますが、聖書において「鹿」はイェシュア、あるいはイェシュアの花嫁の象徴です。
  • 食物規定の21節には、主の聖なる民は「自然に死んだものを、いっさい食べてはならない」とあります。ここにもイェシュアが隠されています。イェシュアは最後の晩餐で弟子たちと最後の食事をされたとき、弟子たちにパンを裂いてこう言われました。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」(マタイ26:27)。また杯を取り、こう言われました。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。・・」(マタイ26:27~28)と。イェシュアの死は自然死ではなく、ほふられ、殺されたのです。私たちが永遠に生きるために、御子イェシュアは殺されました。そのからだと血です。それを食べ、それを飲むことによって、私たちは永遠のいのちを与えられるのです。イェシュアのからだは「生けるパン」であり、イェシュアの注ぎ流された血は「生ける水」なのです。このパンと水こそ、私たちが永遠に生きるために不可欠なものです。「自然に死んだものを、いっさい食べてはならない」という規定の中に、イェシュアが啓示されているとはそういうことです。

2. 収穫の十分の一のささげものの規定

【新改訳改訂第3版】申命記14章22~23節
22 あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。
23 主が御名を住まわせるために選ぶ場所、あなたの神、【主】の前で、あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一と、それに牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつも、あなたの神、【主】を恐れることを学ぶために。


  • ここには、やがて約束された地から得られるすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならないと規定されています。その目的は、「あなたが、いつも、あなたの神、【主】を恐れることを学ぶために」とあります。
  • ここで十分の一という規定があります。なぜ「十分の一」なのでしょうか。イスラエルの民の父祖であるアブラハムが、シャレムの王であり祭司であったメルキゼデクに対して、自分のもっている物の十分の一をささげた出来事があります。この出来事がアブラハムの子孫に対する一つの模範となっているのではないかと考えます。それが模範となっている証拠に、ヤコブも神に対して同様に「すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます」と誓っているからです(創世記28:22)。
  • アブラハムがメルキゼデクに対してささげた記事を見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】創世記14章18~20節
18 さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。
19 彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。
20 あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた

  • アブラムがメルキゼデクに対して「すべての物の十分の一を彼に与えた」のは、「天と地を造られた方」「いと高き神」がアブラムの生存と防衛の唯一の保障となってくださるという祝福のことばに対する、信仰による自主的なささげものとしての「十分の一」だったのです。信仰の父アブラムの例にならって、主の聖なる民たちは「十分の一のささげもの」が規定とされていると言えます。
  • 「十分の一」という規定は、ささげる者にとっての一つの境界線なのではないかと私は考えています。つまり、「十分の一」をささげられる人は、十分の二でも、三でも、あるいはもろ手を挙げてささげることができますが、十分の一を神にささげられない人は、決して十分の一以上のものをささげることができないのです。自分の生存と防衛の保障が神から来るという信仰がこの「十分の一」で表わされるのです。アブラハムの信仰にならって、私たちもこの規定に従うことは、アブラハムと同じ信仰を言い表わすことになるのです。このことから、「十分の一のささげものの規定」は、「あなたが、いつも、あなたの神、【主】を恐れる」かどうかのテストなのです。実際、多くの財産を持っている人ほどこの規定に従うことが難しいようです(マタイ19:22)。

3. レビ人を大切にすること

  • イスラエルの民にとって、レビ人の存在は自分たちの初子の身代わり的存在です。彼らは他の部族のように土地という嗣業は与えられていません。それは、彼らがイスラエルの民に仕える者として神によって取り分けられたからです。神を礼拝するため、神のトーラーを教えるために神に仕え、人々に仕えるために神によって立てられた者たちです。ですから、彼らを支えることは、神に従うことを意味します。レビ人の生活を支えることは神に仕えることと同様のことでした。ですから、すべての福祉規定の最初にレビ人に対する規定が記されているのです。レビ人を軽んずる姿勢は自分たちの霊的祝福にも影響してきます。使徒パウロはこう述べています。

【新改訳改訂第3版】ガラテヤ書6章6~8節
6 みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。
7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。


2017.10.17


a:540 t:2 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional