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受難と復活の予告(第二回)

33.  受難と復活の予告(第二回目)

【聖書箇所】 9章37節~48節

はじめに

  • イエスとはだれかという問いに対してペテロが「あなたは神のキリスト」ですと答えてから一週間後に、イエスは弟子のペテロとヨハネとヤコブを連れて祈るために山に連れて行きます。その山上でイエスは変貌します。するとモーセとエリヤが現われて、まもなくエルサレムで成就することになる「最後」について話し合っているのを弟子のペテロとヨハネとヤコブは目撃しました。モーセとエリヤは旧約の預言者です。イエスは預言者の一人であることは多くの人々もそう思っていました。
  • ところで、イエスがキリストであることと9章37節~43節aの記されている「悪霊につかれた息子のいやし」の出来事と続く43節b~45節の「第二回目の受難の告知」とはどのようにつながるのでしょうか。今回はそのつながり具合を考えてみたいと思います。

1. 「ああ!」というイエスのため息

  • イエスが山から降りてくると、大勢の群衆がイエスを迎えました。そこに悪霊に憑かれたひとり息子の父が叫んで、息子についた霊を追い出してほしいと願いました。「ひとり娘」とか、「ひとり息子」にイエスは弱いようです。あるいは、ルカがとりわけそのことを強調しています。いずれにしてもイエスはその息子をいやされるのですが、その時に、イエスの口から出た「ああ!」というため息(41節)は何を意味しているのでしょうか。

【新改訳第三版】
「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」

【エマオ訳】
「ああ、何と不信仰でひねくれた世だ。私がお前たちと共にいて、お前たちの言うことに耳を傾けることができるのはいつまでだろうか。」

【柳生訳】
「ああ、今の代はどうしてこう不信仰で、ひねくれているのだろう。いつまで、わたしはそなたたちと一緒にいなければならないのか。いつまで耐えなければならないのか。」

  • 41節のイエスのため息はこの時代の人々の不信仰にがまんしているところから出でいることが分かります。つまり群衆も弟子たちもイエスが何のためにこの世に来られたのかをまったく理解していないことへのイエスの独白的「ため息」と言えます。人々が求めるのは常に自分の目の前にある問題だけです。多くの群衆がイエスを求めて迎えたとしても、イエスとのズレが生じていることの現実があります。イエスが語り、イエスがこの世に来られて真になされようとすることには全く無関心な人々の現実、もうすでに「曲げられてしまっている」(分詞現在完了受動態)邪悪さへの嘆きです。
  • イエスのしるしと不思議な奇蹟は「神の国が到来しつつある」しるしなのです。神の民が、「救い」を意味するイエスという方が、文字どおり、救いのための「キリスト」であることを正しく認識できなくなってしまった時代を嘆かれているのです。人々の思いとイエスの思いとのギャップに「いつまで辛抱しなければ」ならないのか」とイエスは嘆いているのです。

2. 「人の子は、いまに人々の手に渡されます」という受難の告知

  • イエスが悪霊を叱りつけて「ひとり息子」をいやして父親に返されたとき、人々は神の威光に驚嘆し、唖然となっているとき、イエス自分の弟子たちにこう言いました。
    「このことばをしっかりと耳に入れておきなさい」(44節前半)と。原文の直訳では「あなたがたは、あなたがたの耳の中にこれらのことばを置きなさい(納めなさい)」となります。これは重要な事柄として聞き、かつ記憶するという意味の慣用句です。しかもその事柄とは「人の子は、いまに人々の手に渡される」という受難のことです。今、驚嘆している同じ人々の手にイエスご自身が引き渡されるという告知です。
  • しかし、弟子たちはこのイエスの言われたことばを理解できませんでした。「理解出来ない」という時制は未完了形であり、正確には、弟子たちは「イエスのことばをずっと理解出来ないままであった」ということです。それは弟子たちが理解できないようにすっかり覆い隠されたままであったからです。おそらくこれはやがて聖霊の到来によってはじめて理解できる事柄だったからだと思われます。また、そのことばの意味について尋ねる事を「ずっと恐れて続けていた」(未完了形)からだとルカは記しています。
  • イエスが「キリスト」であることを告白した弟子たちでしたが、「キリスト」であると「告白する」ことと、イエスが「キリスト」であることを正しく理解することは別の事であったようです。
    画像の説明
  • 「キリスト」とは「油注がれた者」という職名。つまり、旧約では神から「油注がれた」者とは、「王」、「大祭司」、「預言者」たちでした。これまでイエスは多くのしるしと不思議なわざによって王としての力を示してきました。また人々が悟ったようにイエスは預言者であると理解しました。しかしもうひとつのキリストの面である永遠の大祭司としての面は隠されていて理解することはできなかったのです。イエスがキリストであるとい意味は、イエスが神の支配する国の王であり、まことの最後(究極)の預言者であり、永遠の大祭司であることを意味します。
    画像の説明
  • イエスが神と人とを結ぶ永遠の大祭司となられるためには、どうしても「多くの苦しみを受け、完全に拒絶され、捨てられて、殺されるということが必然だったのです。そのことを承知でイエスはこの世にいるのですが、多くの群衆を求め、歓迎しながらも、その必然をだれひとりとして悟っていませんでした。
  • 神の国が回復されるためには、この三つの職が回復されなければなりませんでした。他国に支配されているイスラエルを支配する王が立上らなければなりません。また、歪められてしまっている王の憲章である律法を矯正するまことの預言者が立ち上がらなければなりません。また、神を正しく礼拝するための祭司制度もこの時代、多くの富を得る特権階級に牛耳られてしまっており、それを正して真の礼拝をささげることのできる大祭司が立ち上がらなければなりませでした。特に、最後の大祭司としての務めの回復のためには、受難なくして立ち上がることはできなかったのです。そのことを正しく理解する者はだれひとりとして悟る者がいなかったこの時代を、イエスは「ああ、不信仰な、曲げられてしまった邪悪な世代よ」と嘆かれたのは当然のことであったのです。
  • これからエルサレムに向かっていくイエスは、大祭司としてのキリストの職務を全うするために受難を免れることができなかったのです。9章21節に続いて、44節の第二回目の受難告知においてイエスは弟子たちに「このことばをしっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」と語られたのです。ここには受難のことだけが語られているように見えますが、実はそうではありません。「このことば」と訳された箇所は、原文では複数で「これらのことば」となっています。つまり、21節に語られたことば、「多くの苦しみを受け、・・・に捨てられ、殺され、よみがえる」ということばが当然含まれていると考えることができるのです。

2011.12.1


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