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大贖罪日の規定とその預言的意味

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レビ記は、「キリストの十字架の血による贖いの神秘」を学ぶ最高のテキストです。

14. 大贖罪日の規定とその預言的意味

ベレーシート

  • レビ記16章はレビ記の中でもきわめて重要な章です。それは「贖い」についてイェシュアの血による永遠の贖いを預言的に啓示しているからです。

【新改訳改訂第3版】 創世記6章14節
あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやに塗りなさい


●「やに(タール)」は名詞の「コーフェル」(כֹּפֶר)。「塗る」は動詞の「カーファル」(כָּפַר)です。創世記6章14節にはこの語彙の動詞と名詞が使われています。「やに(タール)」を箱舟の内と外に塗ることで水の侵入を防ぎ、箱舟の中にいる者たちの安全を保つことができました。それは後に、旧約聖書の祭壇に注がれた血の「型」です。つまり、「贖いの血」は人の罪をおおい、神のさばきから守るためのものです。レビ記16章に記されている「贖いの日」は、特にこのことが強調され、幕屋でなされる礼拝のすてべが血による贖いによって成り立っていることを知らされるのです。特に、民のための罪の贖いとして二頭のやぎがささげられます。一つは「主のために」、もう一つは「アザゼルのために」取り分けられます。このことは、「贖い」における二面性を表しています。


1. 「贖い」における二面性

  • 神と人とが共に住むために建造された幕屋は、すべて、血による贖いを土台としています。「贖いの日」(毎年第七の月の10日と定められている)に執り行われる順序は、まず、大祭司アロン自身とその家族のために、雄牛をほふることから始まります。そして、至聖所を香の煙でおおうために入り(第一回目)、その後でほふった雄牛の血を携えて再び至聖所に入り(第二回目)、贖いのふたの前でその血を七回降りかけます。
  • 「主のために」取り受けられたやぎは罪のためのいけにえとしてほふられ、その血が至聖所に携えられ、贖いのふたの前で指で七回降りかけます。この時点でアロンとその家族、および至聖所の祭壇がきよめられ、アロンは至聖所に出入りすることができるのです。
  • 次に大祭司アロンは会見の天幕の入り口に立たせていた二頭のやぎのためにくじを引き、一頭は「主のために」罪のいけにえとして定められほふられます。もう一頭は「アザゼルのために」と定められ、生きたままにされます。「アザゼル」(原語は「アザーゼール」עֲזָאזֵל)はレビ記16章に4回(8, 10, 10, 26節)登場します。これは「やぎ」を意味する「エーズ」(עֵז)と、「立ち去る、消え失せる」を意味する「アーザル」(אָזַל)の複合語と考えられます。
  • 「主のために」とされたやぎは、罪のためのいけにえとしてほふられ、その血をもって至聖所に入り、聖所全体の贖いをすることで、民の罪は赦され、神と人との交わりが可能となり、神に近づくことができるようになるのです。他方、「アザゼルのため」とされたやぎは、大祭司がそのやぎの頭に両手を置き、イスラエルの民のすべての咎(「アーヴォーン」עָוֹן)とすべての背きの罪(「ぺシャ」פֶּשַׁע)、そして「的外れ」を意味する「罪」(「ハッタート」חַטָּאת)を告白してそのやぎに負わせます。そしてそのやぎを「係りの者の手で」荒野(不毛の地、人里離れた地、無人の地)に放ちます。「放つ」とは決して戻って来ないように追いやることを意味します。つまり、それは神が民の罪を忘れ去ることを意味しているのです。このことに関する他の聖書箇所は以下の通りです。

すべて、【新改訳改訂第3版】からの引用。
(1) 詩篇103篇12節
東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。

(2) イザヤ書38章17節
ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。


  • 贖いの二面性」とは、血による贖いによって大胆に神に近づくことを得させるという面と、神に対する罪が神によって全く取り去られるだけでなく、神の記憶から消し去られ、忘れ去られるという面を意味しているのです。「贖い」とは神のさばきからおおわれるだけでなく、罪が赦されることでもあります。この「罪が赦される」ということについて二面性があるのです。
  • 「主のためのやぎ」と「アザゼルのためのやぎ」は、贖いの二面性を啓示しています。それは神の御子イェシュアによる贖いの型なのです。そのことをヘブル人への手紙は以下のように記しています。

【新改訳改訂第3版】ヘブル書10章19~20節
19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

【新改訳改訂第3版】ヘブル書10章17節
「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」


●ヘブル人への手紙の著者は、この「贖罪の日」が意味するところの本当の意味を明らかにすると同時に、律法の定める「アザゼルのための雄山羊」による贖罪の欠陥を指摘しています。その欠陥とは、「年ごとに罪の記憶が戻ってくる」(ヘブル10:1~3)ことにあります。年ごとに犠牲が繰り返しささげられなければならなかったのは、「贖罪の日」の贖いの効力が一年間という期間限定であったからです。しかしイェシュアの血による贖いは、一回の贖いでしかもその効力は永遠に有効なのです。

  • 使徒パウロのいう「神の恵みの福音」は、贖いの二面性がイェシュアによる十字架によって完成(完了)していることをその内容としています。旧約における「贖いの日」の効力は一年限りでしたが、イェシュアの十字架の血潮の効力はなんと永遠です。ですから、主にある者たちはこのイェシュアの血潮による贖いの恵みを絶えず感謝し、その血潮の力に信頼し続ける必要があります。神と人とのかかわり(礼拝、交わり、祝福)の土台は、すべて「血にある」からです。それ以外のもの(神に対する自分の努力や知識、感情、人からの評価など)に頼ってはならないのです。まさに、イェシュアの十字架は神の恵みのあかしなのです。

2. 「御国の福音」の視点から見た「贖いの日」の預言的意義

  • 「御国の福音」の視点とは神のマスタープランのことであり、その視点からレビ記16章の「贖いの日」の制定の預言的意義を知ることは重要です。レビ記16章はそもそも神の民としてのイスラエルの民族的な贖罪が記されている箇所です。個人的な贖罪のみならず、全イスラエルの贖罪について記されているという点が重要です。

(1) アザゼルのためのやぎとされたイェシュア

  • 贖罪の日に、大祭司はイスラエルの民のもろもろの罪をアザゼルのためのやぎの上に置き、そのやぎを荒野に放しました。そしてそのやぎが決して帰って来ることがないように、係りの者の手で(=定められた者たちの手によって)、崖から突き落としたようです。実は、この「定められた者たちの手によって」ということが預言的です。神の御子イェシュアは大祭司カヤパの策謀によってアザゼルのためのやぎとされたからです。しかしそれはイェシュアが身代わりとなって、多くの人の罪を赦すための神のご計画を実現するために、カヤパの口を通して神が言わせたものだとヨハネは記しています。

【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書 11章48~52節
48 もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」
49 しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然、何もわかっていない。
50 ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」
51 ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、52 また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。


●贖罪の日に、大祭司がイスラエルの民のもろもろの罪をアザゼルの山羊の上に置いてその山羊を荒野に放し、その山羊が決して帰って来ることがないように、定められた者たちの手によって崖から突き落としたように、イェシュアも大祭司カヤパによって同じようにされたのです。

(2) 「贖罪の日」の預言的意味

  • 神のご計画のマスタープランにおける、「贖罪の日」が指し示している預言的意味は、悔い改めによる全イスラエルの民族的回心の実現です。神の側ではそのためのお膳立てはすでに整っていますが、全イスラエルの民の方が未だ整っていないのです。そのことに気づかせ、全イスラエルの民を民族的に悔い改めさせ主に立ち返らせることが、「贖罪の日」が目指していることです。神の民イスラエルが犯した最大の罪は神の御子イェシュアを拒絶しただけでなく、十字架につけたことです。さらには、やがて反キリストをメシアとして信じるようになります。そうした罪に気づかせるために、神は彼らに反キリストによる大患難を通させます。そしてそれは彼らに未曾有の苦難をもたらします。
  • 七年間の患難時代が置かれているその目的は、神の民イスラエルが最終的に神に立ち返るために、どうしても必要な産みの苦しみであると言えます。旧約聖書は、神から離れた神の民であるイスラエルとユダの民の回復を、繰り返し、繰り返し預言しています。そのことを実現するために、神は大患難の苦難という産みの苦しみを与えます。「産みの苦しみ」とは新しい命が誕生するときにどうしても通過しなければならない極度の苦しみのことですが、神のご計画のマスタープランにおいて、神の選びの民が悔い改めて神に立ち返るためには、そのような産みの苦しみを避けて通ることは出来ません。その苦しみは、「世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないようなひどい苦難」だとイェシュアが語っておられます(マタイ24:21)。彼らは大患難を通して完全に追い詰められます。そしてその中で自分たちが拒絶したイェシュアこそ、メシアであることを知るようになるのです。具体的には、「恵みと哀願の霊」(ゼカリヤ12:10)が注がれることによって、あるいは主の「息が吹きかけられる」(エゼキエル37章)ことによってです。それは万軍の主の熱心によって、将来、必ず実現されるのです。神の救いのドラマはこれからますます緊迫した新しい段階へと入っていくのです。


2016.5.31


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