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将来における神のトーヴ

5. 第四瞑想 将来における神のトーヴ

【聖書箇所】 哀歌3章22節~41節、詩篇16篇

はじめに

  • 前回は「苦難における神のトーヴ」についてお話ししました。大きな苦しみの経験をした人それぞれが自分にとっての苦難の意味、苦しみの意義を見出すとき、そこには喜びが湧き上がり、生きる力さえもが溢れてくることを。そんな体験した人々のことばとしてPs119:71「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。 72 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。 」
  • 71節と72節はいずれも「トーヴ、リー」で始まっています。私にとって良かった、幸せだった、最高だ、good!! これは結果論的告白です。苦しみの炉をくぐったけれども、それは私にとって良かったのだ。幸いだった。なぜなら、そのことによって、神のおしえ(トーラー)を学んだからです。その教えは私にとって幾千の金銀にまさるものです、と現在の心境を語っています。結果的に良かったのです。今回は、結果論的視点からではなく、この苦しみがはじまった時点、あるいはその最中ではどうだったのかという視点から神のトーヴを考えてみたいと思います。
  • 旧約聖書の「哀歌」は4章からなる短い書です。「哀歌」とはその文字通り、哀しみの歌、哀哭の歌、嘆きの歌という意味です。はじめから読むとかなりしんどい内容です。神の民がバビロンの捕囚となり、エルサレムは消失し、荒廃に帰してしまったことを、魂が張り裂けんばかりの深い哀しみをもって歌っているからです。ユダヤ人にとって、エルサレム崩壊は単なる自分たちの国の中心となる神殿や町が破壊されたということだけではすまされません。エルサレムは神ご自身が自らこの地上で唯一、御住まいとして定められた場所でした。その聖なる都エルサレムが敵の手に陥り、滅ぼされたということは、神が神の民の中に臨在されなくなったということにほかなりませんでした。それは異邦の民からのさげすみを受けるに十分なほどです。そんな状況の中で、果たして神が善であること、すなわち神のトーヴを信じることができるのか、それが今回のポイントです。

1. 哀歌における「トーヴ」の用語について

  • 「トーヴ」という言葉それ自体は哀歌の中では6回出てきますが、今回取り上げますテキストの中には6回のうち4回(3:25「いつくしみ深い」, 26「良い」, 27「良い」, 38「幸い」)出てきます。特に以下の3節は重要な告白なのです。

    25節
    「主はいつくしみ深い(טוֹב)。主を待ち望む(קָוָה)者、主を求める(דָּרַשׁ)たましい(נֶפֶשׁ)に。」(新改訳)
    「主に望みをおき尋ね求める魂に、主は幸いをお与えになる。」(新共同訳)


    26節
    「主の救いを黙って待つのは良い(טוֹב)。」(新改訳)
    「主の救いを黙して待てば幸いを得る」(新共同訳)


    27節
    「人が、若い時に、くびきを負うのは良い(טוֹב)。」(新改訳)
    「若いときに軛を負った人は、幸いを得る。」(新共同訳)

  • 以上の三つの節を見るならば、「主は良い(トーヴな)方です。」それゆえ、

    ①「主を待ち望み、主を尋ね求める魂に」、主は、将来、必ず幸いをお与えになる。
    ②「主の救いを黙って待つならば」、将来、必ず幸いを得ることになる。
    ③「若い時にくびきを負う者は」、将来、必ず幸いを得ることになる。

と、まとめることができます。

画像の説明
  • 神のトーヴを信じる者は、将来、必ず、幸いを得ることになるのです。そのための条件としては、三つのこと挙げられています。それは、「待ち望むこと」「尋ね求めること」「静まること(沈黙)」―
    この三つです。そしてこれらはすべて積極的な姿勢なのです。
  • 将来の神のトーヴを信じるとき、主を待ち望むことができるようになります。26節に使われている「待つ」という「待望用語」は「カーワー」(あるいは「カーヴァー」) קָוָהです。このことばが持つ意味は、「主を信頼し、期待しながら、主を仰ぎながら、沈黙の中で待ち望むということです。ですから、26節には「黙って」という「ドゥーマーム」דּוּמָםが付け加えられてさらに意味が強調されています。つぶやくことなく、静まって、沈黙して、待つ。これが「カーヴァー」) קָוָהです。
  • 付け加えますが、哀歌3章にはもうひとつの「待望用語」があります。3章21節と24節にある「待ち望む」という動詞です。それは「ヤ―ハル」יָחַלという動詞で、将来になされる神の善を信じて、今日を生き抜くという待ち望みを意味します。
  • 過去の良かった思い出を思い起こして自分を励まそうとしても、過去と現実のギャップは広がり、よりいっそう辛くなるものです。待ち望みのプロセスとしてはだれもが通ることかもしれませんが、どんな良かりし過去を顧みたとしても、今を生きる原動力にはなりません。人は将来に希望を持つことに酔ってはじめて今の時を意味あることとして受けとめ、創造的に生きることができます。つまり、明日を信じることのできる人は、今日を生き抜くことができるのです。それゆえ、今の苦しみを黙って受けとめることができるのです。

2. 将来における神の善を信じて生きる者

  • 「沈黙の中で、しかも将来になされる神の善を信じて今日を生き抜く」―そのような人がいたことを哀歌3章は私たちに語っているのです。
  • 日本語訳では「哀歌」というタイトルになっていますが、ヘブル語聖書では1章の冒頭にあることばがタイトルとなっています。その冒頭のことばはなんと、「ああ」です。これが「哀歌」の原題です。「ああ」はヘブル語で「エーハー」אֵיכָה('akhah)ということばです。それは、「どうして」「どうしてこのようなことに」という哀しみの叫びです。「どうしてそうなってしまったのか」、その変わり果てたエルサレムの荒廃した姿に対する慟哭の叫び、失われた栄光の喪失の哀しみ、それが「エーハー」(ああ)ということばに秘められているのです。
  • ここで見落としてはならないのは、3章22節のことばです。エルサレムは荒廃し、その栄光は失われたけれども、「私たちは滅びなかった」という事実なのです。22節~24節をみてみましょう。

    3:22 私たちが滅びうせなかったのは、【主】の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。
    3:23 それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。
    3:24 【主】こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。

  • この箇所で注目しなければならないのは、「主こそ、私の受ける分です」という表現です。どこかで聞いてたフレーズではありませんか。今、教会ではヨシュア記を瞑想していますが、約束の地カナンに侵入して行って、そこを占領し、神からこの地をそれぞれの部族が相続地として分け与えられますが、レビ族だけはそうした土地の相続はなされませんでした。なぜなら彼らの相続地は「主ご自身」だったからです。ヨシュア記の13:33にはこうあります。「レビ部族には、モーセは相続地を与えなかった。主が彼らに約束されたとおりにイスラエルの神、主が彼らの相続地である。」と。
  • このフレーズと連動するのですが、詩篇16篇にも哀歌3章24節にある「主こそ、私の受ける分です」という同じ告白があります。16篇5節で作者は次のように告白しています。「主は、私へのゆずりの地所です。あなたは、わたしの受ける分を、堅く保っていてくださいます。」と。しかも「わたしの受ける分」であるその地は「まことに、私へのすばらしいゆずりの地だ」と喜びを表現しています。他の部族は土地が相続として与えられましたが、レビ族に与えられたのは、不動産としての土地ではなく、「主ご自身」であったのです。実は、このことがとても重要なのです。

(1) レビ族と他の部族との関係

他の部族の分け前は不動産としての土地でした。それを失うことなく次の世代にも受け継がせるという課題がありました。レビ族における分け前は「主ご自身」でしたが、それは特権でもありましたが、同時に彼らは他の部族の町々に配属され、その部族によって支えられるという立場に置かれました。民のうちに信仰的な祝福が満ちているときには安泰でしたが、信仰が希薄になれば自分たちの生活も怪しくなるというかかわりの構造を持っていました。その意味では、霊的な責任は重いものがありました。

(2) レビ族の祭司の務めをゆだねられた歴史的な経緯

イスラエルの中でレビ族が特別な特権が与えられたのにはそれなりの出来事がありました。レビはヤコブの3番目の子どもです。レビはある時、兄のシメオンと共に非常に卑劣なやり方で異邦人を多数殺すという事件を引き起こしました。父ヤコブは彼らを攻めただけでなく、臨終の時に祝福を与える代わりに呪いのことばを宣言したのです。ところがねこの呪われた部族が神の祝福を人々に分かつ部族に変わる決定的な出来事がありました。

その決定的な出来事とは、イスラエルの民がエジプトから脱出したのち、シナイ山でモーセが神からの律法を授かって山から降りて来た時、民たちは偶像礼拝にふけり不道徳な行為を行なっていました。その光景を見たモーセは怒り「だれでも主につく者は私の所に来なさい」と訴えた時に、真っ先に罪を悔い改め、神に立ち返ったのが、レビ族だったのです。そのときから彼らはのろわれた者から神と人との間にあって仕える祭司としての務めを与えられました。約束の地においては、彼らの相続地は他の部族のような土地ではなく、主ご自身でした。

(3) 「主が彼らの相続地」とされたことの本領を発揮した時代

イスラエル全体において、レビ族が最もその存在価値とその働きが重視された時代はモーセの時代とダビデの時代です。本来、レビ人は神を礼拝するための働きを担わせられていましたが、ダビデの時代の礼拝には音楽がもちこまれるようになったために、レビ人は礼拝における賛美の働きを担うようになりました。賛美リーダーも聖歌隊もすべて祭司とレビ人(いずれもレビ族ですが)が担いました。その最高潮はソロモンの神殿が建てられた時代でした。しかしソロモンの治世以降、イスラエルは北王国と南王国に分裂しました。北王国ではレビ族によらない者たちが礼拝を司る者として採用されたために、北のレビ族はリストラされ、はからずも南王国に移動せざるを得ませんでした。

やがて北王国はアッシリヤによって滅ぼされ、南王国もバビロンによって滅ぼされて捕囚の身となりました。南王国は南ユダ王国とも呼ばれますが、ユダ族の王たちが他の国々のような繁栄を求めて、神を信頼せず、他の国と同盟を結んで和を講じるために莫大な賄賂を差し出しました。その費用はすべて神殿の宝物から、礼拝を担うレビ人たちのリストラによって賄われました。そのために神は神殿を崩壊させ、有能な者たちをバビロンの捕囚の民となることを許したのです。その捕囚の民の中にユダ族とともにレビ人たちがいたのです。

捕囚となったレビ人たちはその後の歩みを変える者となります。彼らは神のトーラーに従ったライフスタイルを3世代かけて建て上げていきました。そんな中から、旧約聖書を編纂したと言われるエズラが登場することになるのです。「主が彼らの相続地」という本領がまさに発揮されていったのです。

詩篇16篇の表題には「ダビデのミクタム」とありますが、この作者はまさしくレビ族である可能性があります。この作者がこの詩篇の11節で告白していることばに注目しましょう。その告白とは、「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。」これがレビ人たちに課せられた務めでした。つまり、「主ご自身を相続地とすること」は、神とのかかわりにおいて、霊的な「いのち」を掘り起こすべく大いなる務めがゆだねられていたのです。この詩篇の作者はその務めを立派に果たしたと言えます。その務めはすばらしい祝福であると共に、神の民においてなくてはならない大いなる責任です。


3. みことばによる神の民の再建をゆだねられたエズラとレビ人たち

  • 最後に取り上げたいことは、哀歌の3:24の「主こそ、私の受ける分です」と告白したレビ人たちがいたということです。彼らこそ、捕囚の地において、彼らの本当の務めの真価が花開いたのです。つまり、静かながらも主を待ち望み、将来なされる神の善を信じながら、神のトーラーからいのちを汲み出す務めをこつこつと3世代にわたって汲み出したのです。やがて時が来て、彼らがもとにいた所に帰るようになったとき、帰還した民が最初に取り組んだことは神殿の再建でした。20年以上の時を費やして一応、神殿は再建されました。しかし本当の再建の取り組みは神殿という建物ではなく、神の教え(トーラー)による「神の民の再建」でした。そのために立てられた指導者がレビ人のエズラでした。
  • 彼がエルサレムに帰還するに当たって一番こだわったことがあります。それはレビ人の存在です。エズラは立派な指導者でしたが、彼一人だけでは「みことばによる神の民の再建事業」は困難でした。そのために一緒に帰ってくれるレビ人を捜したのです。このことの重要性が分かりますか。3世代にわたってバビロンの地で神のトーラーライフスタイルを築いたレビ人たちの存在こそ、これからの時代に必要だったのです。レビ人という存在の本領が発揮される時が到来したのです。

4. 今日的課題としての「家庭教育」

  • 捕囚されたレビ人が神のいのちを汲み出しそれを次の世代に継承することに努めたように、特に、信仰の家族としての召しにあずかったクリスチャンホームが、なかなか実現されていない「家庭教育」に真剣に取り組む必要があります。教育の根幹を学校でもなく、教会でもなく、家庭に戻すという取り組みです。そしてこれは聖書的なことなのです。継続的な、しかも世代を越えた息の長い取り組みですが、その報いはきわめて大きいと信じます。神のことばを中心においた家庭教育において、はじめて神を第一にすることがどういうことかを親も子どもも身につくからです。このことのために、私たちは神を待ち望みたいと思います。
  • 今日、バビロン捕囚のような苦しみを味わうことはないとしても、キリスト教会は行き詰まっているのです。神のいのちを再びもたらすためには、エズラたちがしたように、神のみことばに真剣に向き合うという今日的課題があるように思います。

最後に

  • 哀歌の3章24節~29節、40~41節には、暗やみの中から輝き出た光のように、突然、神の善に対する希望的告白が放たれています。

24 「【主】こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。
それゆえ、私は主を待ち望む。
25 【主】はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
26 【主】の救いを黙って待つのは良い。
27 人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
28 それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。
29 口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。
・・・・
40 私たちの道を尋ね調べて、【主】のみもとに立ち返ろう。
41 私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。


2012.4.1


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