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形骸化した断食による主のさばき


7. 形骸化した断食による主のさばき

【聖書箇所】 7章1節~14節

ベレーシート

  • 1~6章までの幻から一転して、7~8章では真の「断食」について語られています。これは神のトーラーの本質に触れる事柄で、私たちはその事柄をしっかりと学ぶ必要があります。
  • そもそも、この事柄が扱われる契機となったのは、神殿再建工事がスタートして二年ほどたってから、バビロンから帰還した「ベテル」出身者たち(エズラ記2章28節参照)の中から、ある者たち(聖書でははっきりと、サル・エツェルとレゲム・メレクとその従者たちとあります)が遣わされて、祭司と預言者たちに「断食に関する質問」をしたからでした。「ベテル」はかつての北イスラエル王国の宗教的中心地の一つでした。
  • この質問を契機として、万軍の主は、真の断食とは何かについて教えようとされました。それが7章に記されている内容です。

1. 人々が誤解していた「断食」

  • 「ベテル」出身者の中からエルサレムに遣わされた者たちは、祭司・預言者たちに次のように尋ねています。つまり、これまで「長年やってきた第五の月の断食をして泣かなければならなのか」と。この第五の月に行ってきた断食とは、およそ70年前にネブカデネザルによって焼き払われた神殿のことを思い出して、嘆くための断食でした。これから新しい神殿が建てられるのに、かつての神殿のことで嘆く断食は必要ないのではないかという思いからの質問でした。

2. 神の意図した「断食」

  • ところが、意外なことに、神の答えは「この七十年間、あなたがたが、第五の月と第七の月(今日の8月と10月)に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか」という民に対する告発でした。その告発は、人々が行って来た断食は主が求めている「断食」ではないということです。主が求めている断食は、エルサレムが陥落し、神殿が焼かれる前に、「先の預言者たち」を通して告げられていたことだとしています。その内容が9~10節に記されています。

    【新改訳改訂第3版】ゼカリヤ書
    9 万軍の【主】はこう仰せられる。「正しいさばきを行い、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。
    10 やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。互いに心の中で悪をたくらむな。」

  • このことが、主が求められる、主が喜ばれる「断食」だったのです。
    ここで語られていることは、神の民たちの間における互いの誠実さであり、特に、「やもめ」「みなしご」「在留異国人」「貧しい者」に対して、しいたげてはならないこと。また、互いに心の中で悪をたくらむことなく、愛し合うことです。これが神のトーラー(教え)であり、真の「断食」の意味するところであったのです。
  • 「やもめ」「みなしご」「在留異国人」「貧しい者」に象徴される弱い立場にある者は、しいたげられても報復することはできず、反対に厚遇を受けたとしても、それに対してお返しできない者たちでした。神のトーラーの要求は、そのような彼らに対してあわれみを示すことでした。社会の弱い立場にある者たちに対する態度が、そのまま社会の倫理的水準として測られるのです。
  • 神の民が神のトーラーに従順に聞き従っていたならば、神は彼らをすべての国々に追い散らすことはしなかったのです。神ではなく、神の民の金剛石(=ダイヤモンド、「シャーミール」שָׁמִיר)のようなかたくなさが、いわばこの「慕わしい国」(エルサレム)を荒れすたらせたのでした。
  • 「先の預言者たち」の中に、北イスラエルに対して語ったアモスがいます。彼のメッセージは、神のトーラーが教えるところに背を向けて偶像礼拝を持ち込み、目に見える豊かさを手に入れました。しかしそのプロセスの中で正義と公議は疎んじられ、豊かな者はますます豊かになり、貧しい者はますます貧しくなるという貧富の格差を生み出しました。人々は神の教える「互いに思いやる社会」を歪ませ、かつ人々の生きる心を疲弊させました。預言者アモスはそのことを民に告発し、やがて国が滅びることになると警告しました。そして預言通どおり、北イスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされ、南ユダ王国も時は遅れますが、同様の罪によって神にさばかれ、亡国の憂き目を経験したのです。
  • 神の矯正期間をバビロンで過ごしたユダの民は、そこから奇蹟的に帰還し、エルサレム周辺に住みました。途中、自分たちの生活を第一にしたことで、神殿再建の工事は頓挫します。神はハガイとゼカリヤの二人の預言者によって彼らを震い立たせて、神殿工事を再開させました。神殿の回復とトーラーによる神の民の回復は紙一重です。コインの裏表です。しかし依然として、民たちは「断食」の真の意味を悟っていなかったのです。ここではベテル出身の者たちが登場していますが、彼らは他の神の民たちの代表的存在と言えます。

3. 神の求める真の断食とは

  • 「断食」の本質は目に見える宗教的行為ではありません。神の求められる「断食」、神の喜ばれる「断食」、それは弱い者たちに対して愛の手を伸べることで、社会(共同体)の中に神の統治理念を実現する誠実な行為でした。しかもその誠実さの水準は、神から出ているためにきわめて高いものでした。
  • イエスは「断食の精神」を告発というかたちで次のように語っています。

    【新改訳改訂第3版】マタイの福音書 23章23 節

    わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。

  • ここに、神のトーラーの精神である「断食」の意味が語られています。十戒の後半の部分は「人を愛すること」戒めです。聖書はこの戒めを生きる象徴的行為として「断食」という言葉を用いているのです。表面的な「食事を断つ」という行為ではありません。それを「食事を断つ」行為としてみなしたのが律法主義です。大切な事柄の本質ではなく、目に見える行為にすり替えてしまうこと、これが律法主義です。その弊害に対してイエスは鋭く批判したのです。
  • 最後に、真の断食を意味するゼカリヤ書7章9節を引用します。

    【新改訳改訂第3版】
    9万軍の【主】はこう仰せられる。「正しいさばきを行い、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。10 やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。互いに心の中で悪をたくらむな。」

    【口語訳】
    9 「万軍の主はこう仰せられる、真実のさばきを行い、互に相いつくしみ、相あわれみ、10 やもめ、みなしご、寄留の他国人および貧しい人を、しえたげてはならない。互に人を害することを、心に図ってはならない」。

    【新共同訳】
    9 「万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き/互いにいたわり合い、憐れみ深くあり10 やもめ、みなしご/寄留者、貧しい者らを虐げず/互いに災いを心にたくらんではならない。」

真の「断食」の精神を、使徒ヨハネがその手紙(第一)の中で記しています。


追加された断食日

律法に定められた「断食」は年一度、第七の月の十日の「贖罪の日」だけです(レビ記23:27)。この日には、民が自分たちの罪を嘆き、いけにえをささげて悔い改める日でした。この断食は、自己を否定し、祈りと嘆きに集中しているしるしでした。バビロン捕囚の期間に、断食日はさらに四日加えられました。過去の悲しい出来事を嘆き、身を戒めるという意味で追加されたようです。

(1) 第十の月(テベット)の十日
B.C.588 エルサレムが包囲された日(エレミヤ39:1/52:4)
(2) 第四の月(タンムズ)の九日
B.C.586 エルサレムの城壁が破壊された日(エレミヤ39:2)
(3) 第五の月(アブ)の十日
B.C.586 神殿が焼失した日(エレミヤ52:12~14)
(4) 第七の月(ティシュリ)の九日
B.C.586 総督ゲダルヤ暗殺の日(エレミヤ41:1~3)


2013.9.27


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