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救いの機会を逸したエフライム

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13. 救いの機会を逸したエフライム

【聖書箇所】ホセア書 13章1~16節

ベレーシート

  • 13章1節は分かりづらい訳になっています。この節は「エフライムは・・上げられた。にもかかわらず、・・エフライムは死んだ。」という対句になっています。
  • 北イスラエルがエフライムと呼ばれたのには理由があります。約束の地カナンの侵攻・占領の際には、エフライム部族出身のヨシュアがイスラエルの12の部族を率いました。またエフライム部族の地シェケム(「シェヘム」שְׁכֶם)に契約の箱が置かれました。そこに人々は集まり、シナイ契約を更新したのです(ヨシュア24:1)。また、ソロモン王の死後、北イスラエルの10部族をまとめた初代の王ヤロブアムもエフライム部族の出身でした。このようにエフライムは常に政治的優位を保っていたのです。
  • ところが、そのエフライムが主なる神を礼拝せず、カナンのバアルを礼拝したことにより、その罪によって「死んだ」と記されています。

1. バアル礼拝によって死に定められたエフライム

  • バアル礼拝を繰り返したエフライムの姿を、それに対する主の姿をホセアは様々な比喩で描いています。

(1) エフライム

【新改訳改訂第3版】ホセア書13章3節
それゆえ、彼らは朝もやのように、朝早く消え去る露のように
打ち場から吹き散らされるもみがらのように
また、窓から出て行く煙のようになる

(2) 主なる神

【新改訳改訂第3版】ホセア書13章7~8節
7 わたしは、彼らには獅子のようになり、
道ばたで待ち伏せするひょうのようになる。
8 わたしは、子を奪われた雌熊のように彼らに出会い、
その胸をかき裂き、その所で、雌獅子のようにこれを食い尽くす。
野の獣は彼らを引き裂く。

  • ホセア書の一つの特徴は比喩的表現が多いということです。主に対しても、エフライム(イスラエル)に対しても、また主とエフライムのかかわりに対してもです。13章では、ホセアは「獅子」「ひょう(豹)」「雌熊」「雌獅子」「野の獣」の比喩を用いてその恐ろしさを語っています。そうした野獣の荒々しい行動を主の行動にたとえたのはホセアの特徴でもあります(5:12, 14/8:1/11:10も参照)。

2. 破滅の宣告

  • 比喩的表現だけでなく、たとえによる表現もホセアの特徴です。特に。13節以降がそうです。

13節

【新改訳改訂第3版】
子を産む女のひどい痛みが彼を襲うが、彼は知恵のない子で、時が来ても、彼は母胎から出て来ない。


エフライムは生まれかかった赤子にたとえられています。「時が来ても、彼は母胎から出て来ない」とは、窮迫した状況(破滅)から逃れる最後の機会を逸するという意味。それほどにエフライムは知恵のない、愚かな子である。

14節

【新改訳改訂第3版】
わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。
死よ。おまえのとげはどこにあるのか。
よみよ。おまえの針はどこにあるのか。
あわれみはわたしの目から隠されている。


主は「死」と「よみ」を支配される方で、それらを用いてエフライムを罰しようと彼らを呼び寄せるということです。「死」は「マーヴェト」(מָוֶת)、「よみ」は「シェオール」(שְׁאוֹל)。「とげ」は「デヴェル」(דֶּבֶר)、「針」は「ケテヴ」(קֶטֶב)です。使徒パウロはⅠコリント15章55節でこの箇所を引用していますが、七十人訳を引用したことで異なる意味で用いられています。つまり、キリストの復活の勝利の前に「死」と「よみ」の力が失われたという意味で用いられています。

ホセア書11章8節で、「わたしはあわれみで胸が熱くなっている」とありますが、ここ(13章14節)では、あわれみを示さないという意味で「あわれみはわたしの目から隠されている」と語られています。ただし「隠されている」だけであって、完全には見放されてはいないことを示唆する表現と言えます。

(3) 15節

【新改訳改訂第3版】
彼は兄弟たちの中で栄えよう。
だが、東風が吹いて来、【主】の息が荒野から立ち上り、
その水源はかれ、その泉は干上がる。
それはすべての尊い器の宝物倉を略奪する。


「東風」と「主の息」は同義です。それはアッシリヤを意味します。「水源」「泉」「尊い器」とは、エフライムに本来与えられているいのちの源泉を意味します。それらがアッシリヤによって「略奪」されてしまう(奪い去られてしまう)のです。北イスラエルの首都であるサマリヤは神に逆らった罪のゆえに、刑罰を受けることを余儀なくされます(16節)。これまでのエフライムの主への反逆の歴史は完全に終わりを告げます。しかしそれは、彼らの原点に立ち返らせる開始を意味することでもあるのです。その開始は彼らの努力によるものでは一切ありません。彼らにとっての最後の一縷の望み、それは「終わりの日」に、彼らに対する主の選びの愛(「アハヴァー」)による一方的な招きがなされるからです。⇒14章へ。


2015.5.1


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