****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

春の四つの主の例祭の真意

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レビ記は、「キリストの十字架の血による贖いの神秘」を学ぶ最高のテキストです。

22. 春の四つの主の例祭の真意

ベレーシート

  • レビ記23章には主の安息日を除いて、以下の七つの例祭があります。時期的に「春の例祭」として、①「過越の祭り」②「種を入れないパンの祭り」③「初穂の祭り」④「七週の祭り」があり、「秋の例祭」としては、①「ラッパの祭り」②「贖罪の日」③「仮庵の祭り」の三つがあります。主の安息日を除くのは、それが毎週巡ってくるものだからです。
  • 出エジプト記23章14~17節には「年に三度、わたしのために祭りを行わなければならない。」として、①「種を入れないパンの祭り」②「初穂の刈り入れの祭り」③「収穫祭」を挙げています。呼び方は異なっていますが、①と②は「春の例祭」、③は「秋の例祭」と見ることができます。
  • 「春の例祭」の四つが一つのまとまりをもっています。興味深い事は「初穂の祭り」と「七週の祭り」が、内容的にはいずれも「初穂の祭り」であることです。異なる点は前者でささげる初穂が大麦の束であるのに対して、後者では小麦で作ったパンであることです。両者の祭りの共通点は必ず安息日の翌日に行なわれることで、前者の後五十日目に「七週の祭り」が行なわれます。レビ記25章にもあるように、第五十年目は「ヨベルの年」としてすべてがリセットされる解放の年でもあります。

「初穂の祭り」(大麦の束)・・(50日)・・「七週の祭り」(小麦で作ったパン)

1. 「過越の祭り」

【新改訳改訂第3版】レビ記23章4~5節
4 あなたがたが定期に召集しなければならない聖なる会合、すなわち【主】の例祭は次のとおりである。
5 第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえを【主】にささげる。


●「過越の祭り」(「ペサハ」פֶּסַח)と呼ばれる祭りは「第一月の十四日」です。この日はかつてイスラエルの民がエジプトを脱出した日です。いわばイスラエルの建国記念日と言えます。「過越」とは、神のさばきがエジプト全土を襲ったとき、イスラエルの民たちはそのさばきから免れました。彼らの門の入口には「傷のない小羊の血」が塗られていたために、神がその家を過ぎ越されたことがこの祭りを記念する出来事となっています。

●エジプトの王(パロ)の権威と力から救い出されたのは、ただただ神である主の力によったのです。自分たちの存在のルーツは神にあることを思い起こさせる記念の祭りです。この祭りは、後に現わされるイェシュアの十字架の死の血潮による救いの「型」でした。今や、私たちはイェシュアの傷のない完全な血によって罪の赦しを与えられ、神の子どもとしての特権が与えられているのです。


2. 「種を入れないパンの祭り」

【新改訳改訂第3版】レビ記23章6〜8節
6 この月の十五日は、【主】の、種を入れないパンの祭りである。七日間、あなたがたは種を入れないパンを食べなければならない。
7 最初の日は、あなたがたの聖なる会合とし、どんな労働の仕事もしてはならない。
8 七日間、火によるささげ物を【主】にささげる。七日目は聖なる会合である。あなたがたは、どんな労働の仕事もしてはならない。」


●過越の祭りの翌日から「種を入れないパンの祭り」が七日間(15~21日)にわたって始まります。「七日間」のうち、その最初と最後の日は安息日と同様の過ごし方です。その期間のどこかで必ずや安息日が入ることになっています。

●今日、イスラエルではこの時期になると酵母菌の入らない「マッツァー」というパンが売られます。決して美味しいものではありません。なぜ、酵母菌の入らないパンを食べなければならないのでしょうか。パン種は酵母菌であり、罪の象徴です。神によって贖われた者たちが神の民としてふさわしく生きるための聖別の期間が「種を入れないパンの祭り」です。このことは今日の教会にも適応されます。この祭りは、イェシュアが私たちの罪の贖いのいけにえとなられるために罪なき生涯を送られたことを想起し、同時に、神の子とされた者たちがその思いと行いにおいて、神のみこころにふさわしく歩むことを目指すための聖別の期間を意味します。

●すでに、レビ記11章で「きよい生き物ときよくない生き物」「食べて良いものと食べてはならないもの」の区別がありましたが、「過越の祭り」の翌日から始まる七日間が、「種を入れないパンの祭り」とされているのは、神の民一人ひとりが神に聖別された者として歩むための点検の期間なのです。主にある者たちのあらゆる思いと行いが聖別されているかどうかを吟味することが必要です。この祭りの期間は、キリストの花嫁とされた私たちが、自らを聖別し、神の子としてふさわしく歩むための備えの期間と言えます。今日この主旨でなされているものとしては、聖餐式がそれに相当するかも知れません。イスラエルの民のように、一週間を聖別のための集会としている教会はありません。罪に対する「狎()れ」を生じてしまわないように、「聖なるものと俗なるもの」との区別の感覚を呼び覚ますような期間を持つことは、今日においても可能であり、かつ有効であると信じます。


3. 「初穂の祭り」

  • 「種を入れないパンの祭り」は、過越の翌日から七日間にわたってなされる祭りですが、「初穂の祭り」は「過越の祭り」の後に来る安息日の翌日(週の初め)になされる祭りで、大麦の初穂を祭司の所に持って行かなければなりませんでした。

【新改訳改訂第3版】レビ記23章9~11節
9 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
10 「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えようとしている地に、あなたがたが入り、収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来る。
11 祭司は、あなたがたが受け入れられるために、その束を【主】に向かって揺り動かす。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。


●「過越の祭り」「種を入れないパンの祭り」の期間中に安息日があります。その翌日に、収穫された初穂として大麦の束を祭司のところに持って行かなければなりませんでした。「初穂」とはこれからなされる全収穫の一部です。すべての収穫は神によってなされるものであり、その「初穂」をささげるということは、「主によってそれが与えられ、支えられている」ということの信仰的感謝を意味します。しかも、主に受け入れられるためには、祭司が初穂のささげものを「揺り動か」さなければなりませんでした。

●「初穂の祭り」は、やがて、イェシュアが十字架で死なれた後の最初の安息日の翌日に(週の初めに)、死から復活されたように、それは「よみがえりのからだ」が与えられるという福音の預言的なメッセージでした。


4. 「七週の祭り」

【新改訳改訂第3版】レビ記23章15~21節
15 あなたがたは、安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える
16 七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を【主】にささげなければならない。
17 あなたがたの住まいから、奉献物としてパン──【主】への初穂として、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるもの──二個を持って来なければならない。
18 そのパンといっしょに、【主】への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊七頭、若い雄牛一頭、雄羊二頭、また、【主】へのなだめのかおりの、火によるささげ物として、彼らの穀物のささげ物と注ぎのささげ物とをささげる。
19 また、雄やぎ一頭を、罪のためのいけにえとし、一歳の雄の子羊二頭を、和解のいけにえとする。
20 祭司は、これら二頭の雄の子羊を、初穂のパンといっしょに、奉献物として【主】に向かって揺り動かす。これらは【主】の聖なるものであり、祭司のものとなる。
21 その日、あなたがたは聖なる会合を召集する。それはあなたがたのためである。どんな労働の仕事もしてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。


●「七週の祭り」は「初穂の祭り」から数えてちょうど五十日目に行なわれます。七週の祭りも収穫された小麦で作った二つのパンを「初穂」としてささげる祭りですから、「初穂の祭り」も「七週の祭り」も、五十日という期間における「最初の日」と「終わりの日」という見方ができます。とすれば、「初穂の祭り」と「七週の祭り」は一つの祭りとして括ることができます。「初穂の祭り」と「七週の祭り」の異なる点は、「初穂の祭り」が初穂の大麦の束を、「七週の祭り」ではパン種の入った小麦で作ったパン2個を、祭司のところに持って行くという点です。これは何を象徴しているのでしょうか。

●イェシュアが十字架の上で死なれ、三日目(つまり、週の初めの「初穂の祭り」)に復活されたことは、やがて主を信じる者によみがえりの朽ちないからだが与えられるという御国の福音の初穂です。そしてその五十日目に神からの賜物である「聖霊」がエルサレムにいた主の弟子たちに注がれたこと(ペンテコステ)は、やがて御国において主の律法が心の中に記されて、神のみこころを完全に行うことができるという「御霊の務め」の初穂と言えます。

●大麦の「初穂の束」や小麦によって作ったパンを前後に「揺り動かす」という動詞(「ヌーフ」נוּף)には、「(雨を)注ぐ、神の賜物として与えられる」という意味があります。

●また、なぜ「小麦で作ったパン種入りの二個のパン」なのでしょうか。長い間隠されてきたこの象徴は、「イェシュアをメシアだと信じるユダヤ人とイェシュアをメシアだと信じる異邦人」を意味します。この両者こそ、キリストの花嫁なる教会の構成メンバーです。「パン種を入れた」とは「ありのままで」という意味であり、初代教会はまさにその初穂となったのです。


2016.6.21


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