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父の約束を待ちなさい

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1. 父の約束を待ちなさい

【聖書箇所】 1章1節~11節

 ベレーシート 

  • ルカの福音書の最後にはすでにイエスの昇天が記されています。そこでは扱われていない部分が「使徒の働き」の中に記されています。たとえば、イエスがよみがえられてから昇天されるまで、なぜ40日間を必要とされたのか。また、父の約束である「聖霊のバプテスマ」を受けることが「イスラエルの復興(回復)」の話と何の関係があるのか、「聖霊のバプテスマ」を受けることが神のご計画の中でどのような意味と位置づけをもっているのか、といった新たな事柄が提起されているのです。
  • 「使徒の働き」の序文が何節までかということは人によって異なりますが、ここでは1節~11節までとしたいと思います。そしてその序文のキーワードは4節にある「待ちなさい」としたいと思います。それは昇天までの40日間においてイエスが使徒(弟子たち)に教えようとした重要な点です。

1. イエスの昇天までの四十日間の顕現の意味

【新改訳改訂第3版】使徒の働き 1章3~5節

3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

  • ここには、イエスが復活されてから昇天されて元いたところに帰られる前、なぜ四十日を必要としたかが記されています。それは一言でいうならば、使徒たちがこれから新しい働きをしていくための十分な整えのためでした。いわば40日間の集中した特別講義(セミナー)です。これは考えてみるとすごいことです。おそらく、使徒たちはこの講義によってイエスから「神の国について」多くのことを教えられ、学んだはずです。すでに使徒たちは三年間、イエスとともに生活した下地があります。それに加えての40日間は意味があります。これが使徒たちに提供されたのは恩寵のなにものでもありません。神の教育法をここに見ることができます。

(1) その一つは、イエスが生きておられるということを確証させるためです。
イエスは死からよみがえられた後、いろいろな場所で弟子たちに現われています。

①復活されたその日の朝に墓を訪れた女たちに(マタイ28:9)
②マグダラのマリヤに(マルコ16:9、ヨハネ20:14~17)
③エマオの途上にあった二人の弟子たち(ルカ24:13~31)
④シモン・ペテロに(ルカ24:34)
⑤復活された日の夕方、エルサレムにいた弟子たちに(ルカ24:36、ヨハネ20:19)
⑥それから8日後、トマスも含めた弟子たちに(ヨハネ20:26)
⑦ガリラヤのある山で11人の弟子たちに(マタイ28:16~17)
⑧テべリヤ湖畔で7人の弟子たちに(ヨハネ21:1~4)
⑨五百人以上の兄弟たちに、しかも同時に(コリント第一15:6)

しかも、イエスの顕現は数多くの確かな証拠をもってなされました。その証拠のひとつに、イエスが弟子たちとともに「食べたり、飲んだり」したことが考えられます(使徒10章41節)。

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(2) その第二は、弟子たちがエルサレムから離れずに、父の約束を待たせるためです。「待ちなさい」ということばの原語は「ペリメノー」περιμένωで、この箇所でしか使われていません。
画像の説明
「メノー」μένωは「とどまる」という意味で、ヨハネの福音書ではきわめて重要なキーワードです。それに接頭語としての「ペリ」περιがついています。「~を越えて」「必要以上に」という意味で、強意を示しています。つまり、ここでの「ペリメノー」περιμένωは、これまでにはない特別な意味において「待つ」ということを意味しています。それは神のご計画の新しい段階を迎えるために、上からの力が賦与される重要な主の命令としての「待ちなさい」だからです。


2. 聖霊のバプテスマとイスラエルの復興の関係

  • イエスが「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受ける」と言われた時に、いっしょに集まっていた弟子たちは、それは「イスラエルの復興(回復)」の時が来るのだと考え、イエスに「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか」と熱心に尋ねました。この質問は決して愚かなものではなく、みことばの根拠(神の約束)に基づく質問だったのです。
  • この40日間、イエスはただ単に自分が生きていることだけでなく、神の国のことを再度繰り返して語っています。その神の国について語る時に、おそらくイエスはモーセの律法と預言書と詩篇に書いてあること(旧約聖書)は全部成就するということを繰り返して語ったと考えられます。父が約束してくださったものとは、聖霊のことであり、旧約では「新しい霊」と言われています。たとえば、エゼキエル書11章19節には「わたしは彼らに一つの心を与える。わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。」とあります。しかしこの「新しい霊」が与えられる時には、「わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの地をあなたがたに与える」(同、11:17)も同時に預言されているのです。つまり「新しい霊が与えられること」と「イスラエルの回復」はワンセットなのです。
  • また「霊」の原語は「ルーアッハ」で、「息」とも訳されます。それは聖霊の象徴です。エゼキエル書37章には「枯れた骨(干からびた骨)の幻」がありますが、四方から「息」が吹いてくると、その枯れた骨は生き返るのです。これはイスラエル全家の回復を預言しています。なぜなら、主が「これらの骨はイスラエルの全家である」と述べているからです(37:11)。そして「わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。・・・このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。」(エゼキエル37:14)と述べています。
  • 弟子たちはこのかかわりを確かめるために、イエスに熱心に尋ねていることを知らなければなりません。決して誤解しているわけではないのです。ここでの「尋ねた」という原語は「エペロータオー」ἐπερωτάωで「熱心に尋ねる」という意味です。ネストレ第27版では「エロータオー」ερωτάωと改訂されていますが、「問う、尋ねる」という意味です。いずれにしても時制は「未完了」で、このことが重要です。未完了時制は継続的に繰り返してという意味合いがあります。弟子たちはそろってイエスになんども熱心に「新しい霊が与えられること」と「イスラエルの回復」とのかかわりについて、納得するまで尋ねているのです。
  • イエスはそれに対してどのように答えたかのでしょうか。イエスは言われました。「それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています」(使徒1:7)と。「それは」とはイスラエルの回復(再興)」のことです。そのことは決してどうでもよいことではなく、また反故にされたことでもなく、確実に、御父がご自身の権威をもって定めておられることだとイエスは言われたのです。しかしその実現の時については、御父の独占事項であり、イエスも知らないし、だれも知ることはできないのだと言われたのです。ということは、エゼキエルによって預言された神の約束の実現は先送りされることを意味しています。
  • つまり、神のご計画はこれまで啓示されてきた路線とは異なっているのです。旧約の預言者たちが語って来たことは先延ばしとなり、それまでとは異なる新しい路線になっているのです。旧約の預言者たちにも知らされていなかった事柄がはじめてここで示されているのです。ですから8節の冒頭には、「しかし」(「アッラ」ἀλλά )という意味の強い接続詞が使われています。これは神の啓示の新しい路線を意味します。イスラエルの回復と新しい霊が与えられる約束は先延ばしとなっただけであり、それは時が来たならば必ず実現するのです。このことを心に留めることはとても重要です。なぜなら、そこには神の心が隠されているからです。置換神学の弊害によってこの神の心が隠されてしまったことは残念なことですが、今やその間違いが明らかになって来ています。
  • では、一体、約束された聖霊のバプテスマは何のために与えられるのでしょうか。それは「わたしの証人(あるいは「証言者」)」、つまり「イエス・キリストの証人」となるためだとイエスは言われました。5節の「聖霊のバプテスマを受ける」ということを、8節では「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます(受け取ります)」と言い換えられています。その力の賦与の目的は「証人」(「マルトゥス」μάρτυς)となることです。「マルトゥス」は殉教者という意味があります。命を賭けるほどに証言する力の賦与、それが「聖霊のバプテスマ」の意味であり、弟子たちに与えられた新しい使命なのです。

3. 雲に包まれて昇天されたイエス

【新改訳改訂第3版】使徒 1章9節~11節
9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

  • イエスの昇天を記しているルカの福音書24章51節では、手を上げて「祝福しながら、彼らから離れて行かれた」とあるだけですが、使徒の働きでは「雲に包まれて、見えなくなられた」とあります。ここにある「雲」(「ネフェレー」νεφελη)は神の栄光の現われです。
画像の説明
  • 旧約時代では、モーセがシナイの山頂において雲の中で律法を与えられています。荒野における幕屋における臨在は雲によって現われました。ソロモンが神殿を奉献したときにも、やはり雲が現われ、祭司たちはその臨在に圧倒されて立っていることができませんでした。雲は神の臨在のしるしです。
  • 新約では、イエスの変貌の時に雲がわき起こり、弟子たちをおおいました。するとその雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの選んだ者、彼の言うことを聞きなさい。」という声がしました(ルカ9:34~35)。復活された神の子であるイエスは雲の中に包まれて昇天されたことによってその栄光を現わされました。そして同様に、イエスが再びこの地上に戻って来られる時にも、「雲に乗って来る」ことが約束されているのです(使徒1:11、ヨハネの黙示録14:14)。

2012.12.20


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