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瞑想(1)「光」

נ ヌン瞑想(1) 「光」

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  • 詩119篇には「光」という語は2回しか出てきません。 一つは「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(105節)。 もう一つは「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(130節)です。いずれも良く知られた味わい深い聖句です。ヘブライ人にとって「光」は単に暗さを明るくする光源以上の意味を持っています。結論的に言うならば、聖書の「光」は神と人との交わりを表わす関係概念です。
  • すべての被造物は光の中に創造され、混沌と無秩序の闇の中にいのちがもたらされました。その「いのちの光」はまさに神と人とのかかわりのことです。やがてそのいのちは、新約時代には「永遠のいのち」という表現に換えられていきます。
  • 捕囚の経験を通った作者が出会った祝福は、神の律法(みことば)こそ、やみの中にいた自分をいのちへと導く「ともしび」であり、自分の道を照らすまことの「光」だと自覚できたことです。エルサレムにいた頃、神の民は神殿を中心とした礼拝でした。神殿の聖所には、神の臨在を示す燭台があり、夕から朝まで絶えず火が灯され続けていましたが、その本当の意味するところを知ることができたのは捕囚という苦しみの経験を通してでした。
  • 神の御子イエス・キリストこそ、すべての人を照らす「まことの光」です。 毎年、ユダヤ教では12月の中旬頃から8日間にわたって、「ハヌカ」という祭りがあります。別名、「きよめの祭り」とも、「光の祭り」とも呼ばれます。この祭りはある歴史的事件から生まれたものですが、もし、私たちがキリストにある者として、この時期に、8日間、「光についての瞑想」の時を持つなら、すばらしい祝福を得るのではないかと思います。
  • それほどに、聖書の「光」という瞑想のテーマは計り知れない深さを持っています。闇の中に「光よ、あれ」と言われたその神に出会うということは、その光の中に生きることを意味します。私たちは、光に照らされ、光の中に招かれ、光の中にとどまり、光の子どもとして、世を照らす光とされた者です。その光は、「闇を照らす光」であり、「いのちの光」、「愛の光」、「まことの光」、「天からの光」です。
  • 御父から遣わされた御子イエスは、「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ1:9)としてこの世に来られました。そして「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と言われました。「天からの光」を受けたパウロも、「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって光となりました。 光の子どもらしく歩みなさい」(エペソ5:8)と勧めています。
  • 詩119篇の「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(105節)との告白は、自分の暗やみが何であるかを知っていることと密接な関係があるようです。


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