瞑想(1)「憐み」
詩篇119篇の22の瞑想の目次
ר レシュ瞑想(1) 「憐み」
- このブロックには、「私を生かしてください」(154,156,159節」と三度繰り返して主に嘆願しているのが目につきます。と同時に二つの告白があります。一つは、「あなたのあわれみは大きい」 (156節) 。もう一つは、「みことばのすべてはまことです。」 (160節)
- 特に、前者の告白を味わってみたいと思います。「主のあわれみは大きい」との告白です。「大きい」と訳されたラヴרַב(rav)は、「大きい」(改、フ)、「豊か」(岩波)、「深い」(関根)とも訳されています。限りなく偉大で、豊かさを秘めたという意味です。
- 「あなたのあわれみは大きい」との告白、つまり、私たちと主とのかかわりは、主のあわれみなしには保つことができないことを意味しています。弟子ペテロがイエスを裏切る前には、そのことを彼は知りませんでした。自信過剰で、自分はしっかりとしていると思っていましたが、サタンによってふるいにかけられました。そのとき、ペテロの背後でイエスハ彼のために信仰がなくなせないように祈っていました。サタンのふるいにかけられるということは、信仰がなくなってしまうような事態が予想されたのです。しかし主イエスハ彼のために祈りました。これが「主のあわれみ」です。
- 「主のあわれみ」はイスラエルの歴史に貫いていますし、私たちの生涯にも貫いています。「あわれみ」とは、同情、プラス行動です。福音書を読むと、イエス・キリストの行動の基調は「あわれみ」であることが分かります。「かわいそうに思う(正しくは、腸が痛むという意味)」という同情の後には、必ず、なんらかの行動が付随されています。
- 使徒パウロも、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪と罪過の中に死んでいた私たちをキリストと「ともに生かし」、「ともによみがえらせ」、「ともに天の所に座らせてくださった」と宣言しています。単なる同情で終わることなく、私たちのために行動によってその愛を示されました。まさに、行動で表わされた神の愛こそ、本当の「あわれみ」です。天の父があわれみ深いように、私たちもあわれみ深くあることが神のみこころです。私も、日々、神のみこころに従って生かされる者でありたいと祈ります。
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