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瞑想(1)「開眼」

瞑想(1)「開眼」

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  • 第3ブロックでは、18節の「私の目を開いてください」という嘆願をキーワードとしたいと思います。この嘆願の理由がそのあとに補足されています。目が開かれる理由は、「あなたのみおしえにある奇しいことに目を留めるように」なるためです。
  • 18節を新共同訳でみると「わたしの目の覆いを取り払ってください。あなたの律法の驚くべき力に私の目を注ぎます。」LB訳では「私の目を開いて、おことばの中に隠されているすばらしい祝福を見させてください。」と訳されています。いずれにしても、幸福への<求道性>は、ダビデが「ただひとつのこと」を求めたように、最も大切なものを求めようとすることにあります。そのためには、どうしても目が開かれなければならないことをこの作者は知っていました。
  • イエスのもとに盲人バルテマイが駆け寄って嘆願した記事があります。マルコ10章44~52節参照。他の弟子たちがそれを阻止しようとしましたが、イエスはパルテマイの必死の叫びに耳を留められました。そしてイエスは彼に尋ねました。「何をしてほしいのか」と。バルテマイはこう答えます。「目が開かれることです。」 この答えの重要性は、この記事が置かれたコンテキストを知らなければ、理解できないように思います。
  • というのも、この盲人バルテマイの願いは、主ご自身の願いでもあったからです。これからエルサレムにおいてふりかかるイエスの受難とその意味を、弟子たちは誰一人として気づく者はなく、だれが一番偉いかと話し合っていたからです。
  • 「目」について、イエスが面白いことを語ったことを思い起こします。「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。」(マタイ6章22節)と。ここでは「目」は、からだ全体、あるいは、存在全体を代表しています。有名な詩121篇の冒頭に、「私は山に向かって目を上げる」ということばがあります。ここでも「目」は、自分自身のすべてを意味しています。したがって、目が開かれることは幸福の求道性においてきわめて重要です。
  • 目が開かれることによって、作者が経験した祝福は、24節の「まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です」という告白でした。「喜び」も「相談相手」も、親しい交わり、信頼を表すことばです。特に、ここでの「喜び」ということばも、詩119篇において最も重要なキーワードの一つです。その「喜び」とは、不変の喜び、愛されていることの喜び、愛し合う喜び、いつでも相談できる信頼の喜び、支えられ生かされている喜びです。そしてこの「喜び」は、イエス・キリストがもっておられた喜びです。
  • イエスは言われます。「わたしにとどまりなさい。わたしのことばにとどまりなさい。わたしの愛の中にとどまりなさい。」と。なぜなら、「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの中にあり、あなたがたの喜びが満たされるため」です。(ヨハネの福音書15章4~11節参照)

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