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瞑想(2)「愛する」

ヴァヴ瞑想(2)

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  • 「我とそれ」の関係(交換可能)ではなく、「我と汝」の関係(交換不可能)において

    (1)神の人への愛が名詞となるとき

    • 恵み、いつくしみ、親切、寛容、赦し、思いやり、あわれみ、配慮、導き、みわざ、謙遜、真実・・等

    (2)人の神への愛が名詞となるとき

    • 感謝、信頼、待望、喜び、誓い、渇望、思慕、礼拝、賛美、畏れ、奉仕、献身、従順・・等

  • 復活されたイエスはペテロに「あなたは、これら以上に、わたしを愛するか」(ヨハネ21:15)と尋ねられました。
    (新改訳、新共同訳では「この人たち以上に」と訳されていますが、永井訳の「新契約聖書」では「これらよりも」と訳されています。) ⇒
  • イエスのいう愛とは、まさに「我と汝」の愛の関係を問うものです。この愛の絆、この信頼の絆こそ、「永遠のいのち」であるとヨハネは理解していました。しかも、この問いはペテロのみならず、すべてのキリスト者に対して、永遠に問い続けられている事柄なのです。

「ヨハネ21:15の訳の問題」

  • イエスの「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」(新改訳)という訳について、この訳は問題だと指摘する人がいます。確かに、弟子たちの中のだれが最も主イエスを愛する者であるかということを、あえてイエスが競争を促すような訳になっているからです。イエスが十字架にかかられる前の番に弟子たちはだれが一番偉いかということを言い合っていました。ですからイエスがそのような意味で言われたとは考えられません。
  • 山岸登師によれば、ここの「この人たち」というのは、男性名詞でもあり、また中性名詞でもありうる代名詞で、ここを「これら」とも訳せると言っています。そうすると、ここは「これらよりも、わたしを愛するか」とイエスは尋ねていることになります。「これら」とは、漁師の仕事であったり、パンを得たりする仕事を意味します。これは実に妙を得た指摘です。ペテロはこれまで何もかも捨ててイエスに従ってきました。その自負は強かったと思います。しかしその献身の自負は、イエスに従えば、イエスが王となられたとき、自分も引き立てられ、それ相当の名誉ある地位に着かせてもらえるかもしれない、と考えていたのではないでしょうか。
  • 自分に失望していたペテロにとって、舟と網はとても彼を引き付ける引力を持っていました。「そうだ、漁に戻ろう。所詮、主の弟子になることは私の高望みだったのだ。イエスがよみがえったとしても、これからどんなことになるのか、自分にはよく分からない。もう一度、地道に漁師として暮らそう。確かに、イエス様に対しては大変申し訳ないことをしてしまった。今から、もう一度弟子としてくださいと頼む自信もないし、そんな厚かましいことはできない。ここに舟が置いてあるということは、私にもう一度、漁に戻れということだ。そうしよう。」とペテロは考えたのではないでしょうか。これまで親分肌な性格をもっていたペテロでしたから、ペテロがそうするなら、他の弟子たちも彼と一緒に漁師の仕事に戻ろうということになったのではないかと思います。
  • 「愛しますか」というイエスの問いかけは「アガパオー」ということばです。見返りを求めない愛を意味することばです。少し、人間ばなれしている感じがすることばなのです。それに対してペテロの答えは「フィレオー」で返しています。原語が異なっているのに新改訳では「わたしがあなたを愛することはあなたがご存じです。」と訳していますが、ここをいろいろな聖書で調べてみると面白いところです。岩波訳では「はい。主よ。私があなたにほれこんでいることはあなたにはわかっています。」と訳しています。「ほれこむ」。良い訳でしょうか。なんとも言えません。
  • イエスがペテロに求められたのは、真実な愛に基づく献身です。そこへ再び、ペテロを歩み出させようとしているのです。しかもその献身は殉教を示唆するものであっただけにペテロには戸惑いがあったようです(ヨハネ21:18, 21)。しかしイエスはペテロにはっきりと自分に従うことを要求しました。

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