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瞑想(2)「慕う」

ת タウ瞑想(2) 「慕う」

テキスト | 瞑想(1)

119:174「主よ。私はあなたの救いを慕っています。」

  • 詩篇119篇の中には、その詩篇の中にしか使われていない語彙があります。174節の「慕っています」と訳されたターアヴתָּאַב (ta'av)がそうです。119篇では40節と174節の2回使われています。他に、この名詞形ターアヴァーתָּאֲבָה(ta’avah)が1回(119:20)使われているだけです。
  • 詩篇119篇で生まれた新しい語彙と言えます。使用頻度はまことに少ないながらも、詩篇119篇においてはとても重要な語彙であるとみなすことができると思われます。なぜなら、詩篇119篇の中心的な思想は、「神への熱心な求道性」だからです。
  • 「慕う」ということばは、人間が本来だれもが持っている欲求の衝動を意味します。その欲求のゆえに、むなしいものを慕い、追い求めることがおうおうにしてあるかもしれません。しかし、そうした欲求(渇き)が、詩篇においては神に向けられていることが特徴です。119篇の場合、作者がなにを慕っているのかといえば、それは神の「戒め」(40節)、神の「救い」(174節)、神の「さばき」(20節)です。
  • いろいろな訳を参考にしながら、ターアブתָּאַב(ta'av)の持っている意味を合いを考えてみたいと思います。
    (1) 口語訳「主よ。わたしはあなたの救いを慕います。」(岩波訳、新改訳、フランシスコ会訳)
    (2) 新共同訳「主よ、御救いをわたしは望みます。」
    (3) 関根訳「あなたの救いをわたしは求める」
    (4) 典礼訳「わたしはあなたの救いをせつに求める」
    (5) L・B訳「私はあなたの救いを慕い求めて来たのです。」
  • このような訳を見る限り、「慕う」ということばの中に、「望む」「切に求める」といった求道性を表わす意味が込められているとみなすことができます。詩篇には「渇望用語」としての語彙がいつくかみられます。たとえば、

    (1) バーカシュבָקַשׁ 

    • 神を「慕い求める」という礼拝用語としての意味が圧倒的です。恩寵用語として使われる時には、神が人を「捜し出す、捜し求める」という意味になります。それゆえ、119:176の「どうかあなたのしもべを捜し求めてください」は特例です。

    (2) ダーラシュ דָרַשׁ

    • 神を「尋ね求める」「求めている」ことに使われます。詩篇119篇では5回(119:2, 10, 45, 94,155)。そのうち、2, 10節では「心を尽くして主を尋ね求めています」と告白されています。

    (3) シャーハル שָׁהַר

    • 「真面目に、熱心に、本気で神を求める(捜し求める)こと」を意味します。旧約聖書では13回使われていますが、そのうち、2回が詩篇にあります。詩63篇1節と、そしてもう一回は詩78篇34節です。箴言8章17節には「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す(שָׁחַר)者は、わたしを見つける。」とあります。心を尽くし、精神を尽くして、切に主を求めること、それは命がけでもあります。神も失われた羊を捜し出して、これの世話をされる方です(エゼキエル34:11)。それはまさに神の命がけのサーチでした。そのサーチによって私たちは神に見出されたのです。

    (4) カーサフ  כָּסַף
    (5) カーラー כָּלָה

    • カーサフとカーラーはワンセットで用いられます。カーサフは「恋い慕う」、カーラーは「絶え入るばかり」で、「恋い慕って絶え入るばかり」と訳されます。「恋い慕って絶え入るばかりです」という表現は旧約聖書に4回、しかもそのすべてが詩篇(84:2/119:81, 82, 123)に見られます。非常に特異な表現です。「絶え入るばかり」と訳されたカーラーכָּלָה(kalah)は、「尽き果てる、消え失せる、衰え果てる、滅ぼし尽くす、疲れ果てる、終わる」と訳されています。「恋い慕って絶え入るばかりです」とは、自分の全存在を通して、神ご自身との深いかかわりを求めている渇望的表現と言えます。
  • イエス・キリストがサマリヤの女と出会ましたが、その出会いのテーマは「渇き」でした。サマリヤの女は自分のうちにある渇きを男との愛の中に求めました。しかしそれは井戸の水のようにまた渇きます。イエスは渇くことのないいのちの水があることを話しました。彼女はそれをすぐにでも得たいと願いましたが、イエスは彼女に自分のうちある「渇き」について気づかせようとしました。彼女の真の問題にふれていったのです。そして礼拝についての話しになったとき、イエスはこう言われました。「真の礼拝者たちが、霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるのです。」と(ヨハネ4:23) 父なる神は、渇きをもって神を求める者たち、神を慕い求める者たちを求めておられるのです。詩篇119篇の作者もそうしたひとりでした。22のブロックからなるこの119篇の「みことば詩篇」が存在すること自体、まさに「神を慕い求める真の礼拝者」であることの確かなあかしであるということができます。


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