****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想(3)「真夜中に」

ヘット瞑想(3) 「真夜中に」

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  • 62節「真夜中に、私は起きて、あなたの正しいさばきについて感謝します。」
  • これは不思議な告白です。なぜ、朝早くでもなく、また夜明け前でもなく、真夜中なのか。しかも、その真夜中に、自然にではなく、あえて意識的に起きて、感謝するという。その内容は「あなたの義のさばき」です。この62節の一つひとつの語句がとても意味深い、味わいある内容を含んでいるように思えます。
  • まず、「真夜中に」と訳されたヘブル語は「真中」を表わすハツォートחֲצוֹתと、「夜」を表わすライラーלַיְלָה(laylah)とが一緒になって使われています。ハツォート・ライラーで「真夜中」を意味します。この表現は、旧約の中でなんと3回(出11:4/ヨブ34:20/詩篇119:62)しか使われていません。「夜」ということばは多くありますが、「真夜中」は稀です。しかし、詩篇119篇においてとても重要なことばだと予感します。単なる「夜」ではなく、特別な「夜」、しかも深い意味をもった「夜」なのです。
  • この「真夜中」ということばが聖書で最初に使われている出エジプト記11章4~6節を引用します。
    4 モーセは言った。「【主】はこう仰せられます。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。5 エジプトの国の初子は、王座に着くパロの初子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の初子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。6 そしてエジプト全土にわたって、大きな叫びが起こる。このようなことはかつてなく、また二度とないであろう。』
  • 「真夜中に」、エジプト全土の「初子」が死ぬという神のさばき(最後のさばき)が起こることをモーセは語りましたが、事実、そのとおりのことが起こりました。そのことによって、エジプト人とイスラエル人とが区別されたのでした。この出来事によってイスラエルの民はエジプトから脱出することができたのです。何百年という長い間苦しんできたエジプトから無傷で解放されることになりますが、その解放をもたらす契機となった神の出来事は「真夜中に」起こりました。
  • 「真夜中に」という表現はある意味で象徴的です。エジプトの王パロは、度重なる災害によって、ますます心を頑なにしていきました。その頑なな頂点は、まさに「真夜中」とも言えます。最も暗い状況、先の見えない状況、行き詰まりの状況、最悪の状況-これこそ「真夜中」が意味するところと言えます。
  • 聖書の中で、似たような話が使徒の働き16章にあります。聖霊に導かれてヨーロッパに渡って行ったパウロとシラスがピリピの町で捕えられ、牢獄の、しかも最も奥にある牢獄に入れられ、足には足かせをかけられ、とびらには鍵がかけられました。しかしパウロとシラスは、なんと「真夜中」ごろ、神に祈りつつ、賛美の歌を歌い始めました。すると突然、大地震が起こって、扉は開き、足の鎖も解けてしまいました。それだけでなく、牢獄の看守が救われ、新しい教会が誕生して、パウロの働きを経済的に支える教会となりました。いったいだれがこんなことを考えることができたでしょう。これは、「真夜中に」、パウロとシラスが神を賛美したことによってもたらされた奇蹟でした。
  • 詩篇119篇の作者も同様に、「真夜中に」起きて、神に感謝をしています。(ヘブル語の「感謝する」というヤーダיָדָהは「賛美する」という意味でもあります。英語では、感謝することも、賛美することもpraiseで表わします。「起きる」という動詞もクームקוּםで、「立ち上がる」(I will rise)ことを意味します。神が「立ち上がられる」ときは、そこに奇しいみわざが現わされます。また、人が信仰によって「立ち上がる」とき、ゆるがない勝利が与えられます。ひとりの足の不自由な者が、「美しの門」でイエスの御名を信じる信仰によって「立ち上がった」ことによって、敵対する勢力も同じく立ち上がりましたが、初代教会はそれによってむしろ前進していきました。
  • 「真夜中」こそ神のみわざの新たな始まりです。人間的な手立てが全くなくなってしまった状況こそ、「真夜中」と言えます。詩篇119篇の作者は、そうした「真夜中」を通る経験をしたことがわかります。そして同じ経験をした「ともがら」の存在を通して、神の時が来るまで、静かに、神とのかかわりを深め、備えていったのでした。
  • 「義のさばき」、これは義による神の統治・支配、導き、配剤などを意味します。人間的な目で見れば、たとえ「真夜中に」あるように見えても、神は「いつくしみ深く、憐れみ深く、恵み豊かな方である」という信仰が「立ち上がる」ならば、そこにおのずと感謝(賛美)がわき上がります。真夜中を通ったことは決して無駄ではなく、信仰の世界では大いなる益をもたらすことを教えられます。
  • どんな信仰者であっても、その歩みにあっては「真夜中」を経験することがあると思います。しかし、もしこの詩篇の作者のように、あえて、その真夜中に「起き上がり(立ち上がり)」、神が「義のさばき」を必ず成してくださると確信できるとすれば、おそらく、一本筋の通ったブレない信仰生活を歩んでいけるのかもしれません。
  • 62節「真夜中に、私は起きて、あなたの正しいさばきについて感謝します。」・・この一節の中に模範とすべき信仰者の姿を見る思いがします。


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