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神との関係を育てる <3>

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A-17. 神との関係を育てる <3>


はじめに

  • 前回では、神の不在経験を通してより深い神の臨在経験をもたらすことに触れた。祈りは、まさに神への信頼を学ぶ道である。私たちは神の子どもとして、祈りを通して、神への信頼を学ばなければならない。その神への信頼の道とは、常に、神の臨在の意識が生活の隅々にまで染み渡っている生き方を意味する。
  • ダビデがペリシテ人のゴリアテと戦うことになったとき、サウル王はダビデに自分のよろいを着させ、頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。しかしダビデはそれを脱ぎ、川に行って石を取り、それを投石袋に入れ、石投げを手にしてゴリアテに立ち向かった。しかし石が、ダビデの本当の武器であったのではない。ダビデはこう言った。「私は、おまえがなぶったイスラエルの神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ」と。ダビデにとって大切な事は、方法や手段ではなく、「万軍の主の御名」を知っていたということであった。ダビデはこの「万軍の主の御名」の霊的現実をいつ、どのように知ったのであろうか。興味は尽きない。
  • 神への信頼の道において、伝統的、あるいは定型化した祈りではなく、自分にフイットした、生きた自分の祈りのスタイル、あるいは礼拝のスタイルを築くことが重要であると考える。

(1) 自分の祈りのスタイルを築く

「マタイ・スタイル」と「ルカ・スタイル」の相違

  • ここで祈りの領域における一つの分野―<嘆願の祈り>についてのみ取り上げ、マタイとルカとの祈りついての見方を比較し、その違いを考えてみよう。マタイの福音書では「祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」(6章7~8節)。これはマタイ6章の「祈るときに」の注意事項で、人に見られるような場所ではなく、隠れた所で密かに祈りなさいという教えの後に続いている。
  • ルカの福音書では全く反対のことが記されている。ルカ11章8節では、友だちが真夜中パンを借りにきた時、「彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。」というたとえ話で、必死に、執拗に求め続ければ、祈りは聞き入れられるとしている。
  • 同じ意味のことを、ルカ18章でも「やもめと悪い裁判官」のたとえで語っている。ここでは、ひとりのやもめが、ひっきりなしに、うるさい程、昼も夜も叫び求めている。そしてイエスはこのたとえを通して、「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教え、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教え」ている(ルカ18章1節)。しかしマタイでは、しつこい祈りは異邦人のすることだと否定している。

①ルカ・スタイル 

  • ルカ・スタイルの主の祈りは、外向的・遠心的である。つまり、神に向かう必死な叫びの祈りスタイルである。なりふりかまわない祈り、泣き叫ぶ祈り、危機的な切羽詰まった祈り、神に助けを求めて思いを爆発させる祈りがこのタイプの祈りである。旧約では、出エジプト3章9節にある「イスラエルの人々の叫び声」の祈りがそれである。その祈りによって神はモーセを遣わされた。

②マタイ・スタイル

  • マタイ・スタイルの祈りは、内向的・求心的である。ルカ・スタイルとは反対に、心を自分の内側に向かせ、聖霊の訪れを願い求める祈り。思いを内に深く凝縮させ、心を内面に集中させた祈りである。主の祈りや定型的な祈りに心を潜め、あるいは、「みこころのままに」と神の摂理を信頼した祈りがこれに入る。また、マタイ21章22節には、「あなたがたが信じて祈り求めるなら、何でも与えられます」しある(並行記事のマルコ11章24節では、「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすればそのとおりになります。」となっている。
  • ルカは聖霊の働きを重視して、異邦人教会のカリスマ的現象―異言を発したり、恍惚状態に至る神秘的祈りーを尊重している。従って祈りのスタイルも熱狂的になる傾向があった。マタイは伝統的ユダヤ人教会らしく律法を重んじ、カリスマ的な祈りは異邦人のスタイルとして忌避している(マタイ7章21~23節)。
  • ここでマタイ・スタイルか、ルカ・スタイルか、どちらの祈り方が正しいのかというような問いは無意味である。マタイはユダヤ人教会、ルカは異邦人教会の事情から、それぞれの祈りのあるべき姿を教えているからである。聖書は二つの祈りのスタイルを良しとしている。
  • こうしたスタイルの違いは祈り(嘆願)だけでなく、礼拝においても見られる。例えば、詩篇を見てみよう。65篇1節には「神よ。あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります。」とある。ここには沈黙の賛美がある。しかし149篇1、2節では「・・イスラエルは、おのれの造り主によって喜べ、シオンの子らは、おのれの王にあって楽しめ」とある。ここには喜びの爆発があり、感情に任せて主を礼拝する姿がある。前者は、主との深い交わりを味わう礼拝であり、特徴は静思的である。しかし、後者の特徴は活動的であり、喜びと楽しみがその場の雰囲気である。いずれのスタイルも聖書的なのであるが、現代における諸教会や個人においては、そのいずれかがドミナント(支配的)となっている。


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