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神はとりなし手を求めておられる <1>

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B-01. 神はとりなし手を求めておられる <1>



(1) 神は人を通して働かれる

  • 神がすべての支配者であり、全能者であられるなら、なぜ私たちは祈るべきなのか。なぜ神は私たちのとりなしの祈りを必要とされるのか。
  • その質問の答えは、神がアダムを創った最初の計画にある。アダムはすべての人間の代表である。神の当初の計画とは、アダムとエバとその子孫に、この世のすべて、そして、創造されたものすべてを支配するようにと神は定められた。創世記1章28節にはこうある。
    • 「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」
  • 詩篇8篇6~8節にはこう書かれている。
    • 「あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また、野の獣も、 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。」 
  • 6節で「治めさせ」と訳されている「マシャール」というヘブル語は、アダムとその子孫がこの世における神のマネージャー、支配人、あるいは統治者であるという意味である。つまり、アダムは神の仲介者であり、間に立つ者であり、代理人であった。
  • 詩篇115篇16節もこう記している。
    • 「天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。」
  • 「与えられた」という原語(ナサーン)という語は、与えられたと訳されることが多いが、モファット訳では「神はこの世を人間にまかせられた」と訳している。神は所有者の権利を人間には与えなかったが、人間に統治の責任を任せられたのである。
  • また、創世記2章15節には、「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」とある。この「守」らせたのヘブル語は「シャマー」で、「見張る・守る」という意味である。聖書ではよく見張り人の意味で使われている。アダムはこの世において、神の見張り人であった。
  • このように、アダムはこの世における神の代理人である。代理人は他の人の意思を再現する人である。この神を再現するということは、決して小さいことではない。それゆえ、人間がこの働きを果たすことができるように、神は、不思議なほど人間を自分に似たものとして創造された。神は、他の被造物には与えなかった永遠の霊を創造する力を私たちに与えられた。詩篇8篇5節には人間にご自分の「栄光の冠」をかぶせられた。これは権威の概念に結びつく。アダムはすべての権威において、神の代理を務めた。彼はその責任を負っていた。
  • この権威と務めの責任をサタンによって、合法的に奪われてしまった。それゆえ、今は、一切の権力と栄光がサタンの手に奪われており、イエスは3度も、サタンを「この世の支配者」と呼んでいる。しかし、神が人間を通してしか働かれないという決定があまりにも完全で究極的であったので、アダムが手放してしまったものをもう一度手に入れるために、神が人間となるという代償を払わなくてはならなかった。この事実が「人間をとおして」働くという神ご自身の決定を重々しく証拠づけるものはない。
  • ここに、私たちが祈る必要性があると信じる。神は創造の時から、人間と無関係にではなく、人間を通して働くことを決めたのである。これまでもそうであったし、これからもそうである。神ご自身が人間にならなくてはならないという犠牲を払ってまでも、である
  • 全能の支配者でありながら、神が自らを制限したと聖書にはっきりと書いてある。この世のことに関しては、人間を通して働かれると、ご自分を制限されたのである。
  • 御国が来るように、みこころがなるようにと神に祈る人を、神が必要とされている。主は、日々の糧を求めるように私たちに教えられた(マタイ6章11節)。しかし主は、祈る前から、私たちの必要をご存知なのではないか。
  • 主は、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさいと言われた。しかし、収穫の主が私たち以上に、それを望んでおられるではないか。・・・なぜ、私たちは神がすでに計画されていることを祈らなくてはならないのか。祈りが絶対に必要であるということを、証明してくれるいくつかの例。

①エリヤの熱心な祈り・・列王記第一 18章

  • ここには神が人を必要とされ、その人の祈りを通して自らの計画を実行する話がある。18章の終わりで、他のいろんな出来事の後、エリヤは7回祈り、そして最後に雨が降る。1節で、雨を降らせると決めたのは神であった。ではなぜ、これが神の御心であると考えるなら、人の祈りがその雨を「産み出す」必要があったのか。なぜエリヤは7回も祈り続けなければならなかったのか。その論理的な唯一の答えは、人間を通して働くという方法を神が選ばれたからというものである。神が何かをなさる時に、心からそれを望まれても、私たちがそれを求めることを必要とされるのである。

②ダニエル ―預言の成就ととりなしとの関係―

  • ダニエル・紀元前606年、罪のためにイスラエルは外国に支配された。何年も後、ダニエル書9章で、ダニエルはエレミヤの預言を読んでいる時に、イスラエルの捕囚が終わる時期がきたことを見つけた。エレミヤは、ダニエルが経験している捕囚を預言しただけでなく、その期間が70年であることをも預言していた。そのとき、ダニエルは、私たちが普通することとは全く違うことをした。私たちはリバイバルの約束、解放、いやし、回復の約束をいただくと、黙ってそれが起こるまで待っている。ところか、ダニエルは違った。神が自分の関与を必要としていることを。
    • 「そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。」(ダニエル9章3節)
  • ダニエルが祈った直後に天使ガブリエルが送られたにもかかわらず、天にあった戦いを通るのに21日かかったということである。彼は次のようなメッセージを携えていた。「あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。」(ダニエル10章12節)
  • ダニエルは預言が成就することと、とりなしの間に、何かしらの関連があることを知っていた。神が預言される。しかしその成就の時がきても、主が期待した祈りがなければ、自動的に成就させることはしない。神はとりなしの重荷を負う心の準備のある人を探しておられるのである。


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