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終わりの日に、シオンから主のみおしえが出る

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4. 終わりの日に、シオンから主のみおしえが出る

【聖書箇所】4章1~13節

ベレーシート

  • ミカ書4章1~3節とイザヤ書2章2~4節はほとんど同じです。「全く」ではなく、「ほとんど」と言うのは、微妙に異なる部分があるからです。しかしその内容は全く同義で、終末における主の家の山(=エルサレム)の希望の幻が記されています。
  • ミカ書とイザヤ書が異なる部分とは以下の部分です。

    〔第一の相違〕
    「主の家の山は、山々の頂に堅く立ち」の「堅く立ち」(「クーム」קוּםの分詞ニファル態)の語彙の位置が異なっている点です。イザヤ書の場合は「終わりの日に」の後に「堅く立ち」とあり、終わりの日に、主の家の山が堅く立つことが強調されているように見えます。ミカ書の場合は「山々の頂に堅く立つ」ことが強調されているように見えます。イザヤの場合「主の家の山が堅く立つこと」、ミカの場合は「主の家の山が、山々の頂に堅く立つこと」がそれぞれ強調されています。

    〔第二の相違〕
    「主の家の山は、山々の頂に堅く立ち」と「丘々よりもそびえ立ち」は同義的パラレリズムです。ミカ書の場合は、後半のフレーズに主語となる「山」を示す代名詞「それ」(「フー」הוּא)を補っています。

    〔第三の相違〕
    イザヤ書で「国々」と訳された「ハッゴーイム」(הַגּוֹיִם)が、ミカ書では「アムミーム」(עַמִּים)という語彙になっており、反対にミカ書の「ハッゴーイム」がイザヤ書では「アムミーム」となっていることです。つまり、この二つの語彙がイザヤ書とミカ書では逆に記されているということです。しかしこの場合の意味するところは変わりません。ユダヤ人と異邦人が共に主の家の山に川のように流れてくるのです。

    〔第四の相違〕(重箱の隅をつつくようですが)
    ミカ書4章2節に「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう」とありますが、原文では「さあ、上ろう。主の山。つまりヤコブの家に。」となっていて、「主の山」と「ヤコブの家」を接続詞の「ヴェ」(וְ)でつないでいます。この接続詞はイザヤ書にはありません。


1. メシア王国では主のみおしえはシオンから出る

(1) 「終わりの日に」「その日」は、メシア王国を指し示す定型句

  • 「終わりの日に」(「ベアハリート・ハッヤーミーム」בְּאַהֲרִית הַיָּמִים)
    「その日に」(「バッヨーム・ハフー」בַּיּוֹם הַהוּא)
  • この「終わりの日」「その日」と言われる日に、主がなされることこそイェシュアが語られた「御国の福音」と言われるものです。イェシュアの初臨によってもたらされた「神の恵みの福音」「和解の福音」「十字架の福音」とは少々異なります。イェシュアの再臨によってもたらされる神の約束の実現による「良きおとずれ」です。今日のキリスト教会におけるクリスマスも、そして聖餐式も、この二つの福音が示唆されているにもかかわらず、いずれも過去の恵みの出来事に重きが置かれているようにも見えます。
  • いずれも、過去の恵みを想起しながら「終わりの日」「その日」について瞑想し、かつ待望するところに重要な意味があるのですが、残念ながら今日のキリスト教会はそのことを真剣に問い直そうとはしていないように思います。教会の聖礼典である「聖餐式」が定期的に繰り返されることで惰性に流され、その本意を考えることをしなくなっているように思えます。これは「主の祈り」についても言えることです。いつも繰り返されていることを、あえてその本意を問いかけることは、教会にいのちを回復させる力だと信じます。

(2) メシア王国においてはエルサレムは主のみおしえの源泉地

  • 天地が創造されたとき、ひとつの川がエデンから出て、園を潤し、そこを源として四つの川が分かれて流れ出ていました。そのように、メシア王国ではエルサレムから主のみおしえが流れ出るのです。そのために、世界中から多くの人々がやってきて、直接、メシアからみおしえを聞くことになるのです。いったいどんなみおしえが語られるのでしょうか。私たちがもっている聖書の教えではないと思います。というのは、聖書の中で神が約束された多くのことが実現してしまっているからです。とすれば、どんなみおしえなのか、ちょっと想像がつきません。しかしその時になれば、みおしえを聞くためにすべての国々から(世界各地から)人々が集まってくるのです。ある人を媒介としたみおしえの解釈ではなく、メシアから直々のみおしえを聞くためです。
  • メシア王国(千年王国)においては、次の新天新地の最終ステージとは異なり、朽ちるからだを持っている人と朽ちないからだを持っている人とが混在しています。朽ちるからだを持っている人は罪の支配から完全に解放されているわけではないので、メシアによる裁定が必要になって来ます。それゆえメシアは「鉄の杖」をもって裁定を下さなければなりません。しかし多くの問題はメシアの知恵に満ちた統治によって治められ、シャーロームは保たれると考えられます。主の統治はエルサレムにその拠点を置きながらも、多くの民の間をさばき、どんなに遠く離れた人々にもその裁定が下され、争いになることはないのです。それゆえ、「国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない(学ばない)」のです(3節)。

(3) 人々が「いちじくの木の下に」すわるとは

ミカ書4章4節に次のように記しています。

【新改訳改訂第3版】ミカ書4章4節
4 彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり、彼らを脅かす者はいない。まことに、万軍の【主】の御口が告げられる。

  • 「ぶどうの木の下」と「いちじくの木の下」は常にワンセットで使われるフレーズです。他にも二箇所そのフレーズがありますが、いずれも平和を享受していることを意味しています。

    ①【新改訳改訂第3版】Ⅰ列王記4章25節
    ユダとイスラエルは、ソロモンの治世中、ダンからベエル・シェバまで、みな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下で安心して住むことができた。

    ②【新改訳改訂第3版】ゼカリヤ書3章10節
    その日には、──万軍の【主】の御告げ──あなたがたは互いに自分の友を、ぶどうの木の下といちじくの木の下に招き合うであろう。


  • 「ぶどうの木の下にすわること」と「いちじくの木の下にすわること」は同義であり、争いのない平和を享受している状況を表わしています。新約聖書の中には「いちじくの木の下に」いたイェシュアの弟子のひとり、ナタナエルのことがヨハネの福音書1章に記されています。
  • イェシュアは言われました。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」これはどういうことでしょうか。ナタナエルはいちじくの木の下でいつも何をしていたのでしょうか。ちなみに、このナタナエルは、ヘブル語で「与える」を意味する「ナータン」(נָתַן)と、「神」を意味する「エール」(אֵל)が結びついた名前です。「神は与えたもう」という意味の名前、それが「ナタナエル」(ヘブル語表記では、נְתַנְאֵלで「ネタヌエール」)です。余談ですが、イスラエルに「ネタニヤフ」という名前の首相がいますが、こちらの名前は「主は与えたもう」という意味です。
  • いちじくの木の下にいるナタナエルを見たイェシュアは、ナタナエルのことをこう言いました。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」イスラエルでは、神に祈ったり、神を瞑想したりするときには「いちじくの木の下」で過ごしたようです。ですからナタナエルという人は、神を自ら求める人であったと思われます。そんな彼がイェシュアに覚えられていたのです。そして、イェシュアは彼にこうも言われました。「あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」(ヨハネ1:50)
  • さらに大きなことを見る」とは「天が開かれて見る」ことです。「天が開かれる」とは「みことばの戸が開かれて天からの悟りが与えられる」ことでもあります。また「心が開かれて主をより深く知る」ことでもあります。「目からうろこのようなものが落ちて、今まで見えなかったものがよりはっきりと見えるようになる」経験、そのようなことが「終わりの日に」すべての人々に起こるというのが、ミカ書4章4節で記されている約束なのです。

2. 産みの苦しみを経て、回復へ

  • メシア王国におけるすばらしい経験をする前に、苦難を通ることが11~12節で預言されています。

【新改訳改訂第3版】ミカ書4章11~12節
11 今、多くの異邦の民があなたを攻めに集まり、そして言う。「シオンが犯されるのをこの目で見よう」と。
12 しかし彼らは【主】の御計らいを知らず、そのはかりごとを悟らない。主が彼らを打ち場の麦束のように集められたことを。

  • イェシュアが再臨してメシア王国が実現される前に、イスラエルの民は苦難を通ります。それは反キリストによる未曾有の大患難といわれる出来事です。ただし、キリストの花嫁である教会はこの苦難から携挙によって免れます。この未曾有の大患難は彼らが民族的に神に立ち返るためら与えられる最後のチャンスです。11節の「多くの異邦の民があなたを攻めに集まり」とは、反キリストによって集められた軍勢を意味します。神の民イスラエルを滅ぼすためのハルマゲドンの戦い、そしてエルサレムの破壊。彼らは神のご計画を知らず、主の道具として用いられるに過ぎません。そして彼らはその目的を果たすと、主によってさばかれるために「打ち場の麦束のように集められ」、敗北します。その後でシオンの回復がなされるという約束が与えられているのです。これこそが「御国の福音」であり「御国の勝利」なのですが、置換神学と個人的救いの強調によって、この「御国の福音」が今日見失われています。「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから。」というイェシュアのメッセージを、今日的メッセージとして再検証する必要があるのです。


2014.12.20


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