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詩1篇の修辞

詩篇1篇(1) 「水路のそばに植わった木」

詩篇1篇には、二つのシミレsimile(直喩)があります。

(1) 「正しい者」(複)「ツァディーキーム」צַדִּיקִים、あるいは「幸いなその人」(単数)「アシュレー、ハー・イーシュ」אַשְׁרֵי הָאִישׁの直喩で「水路のそばに植わった木のようだ」がその一つです。

〔語彙〕

①「水路」と訳された「ペレグ」(פֶּלֶג)は、自然の川の流れではなく、「流れ、運河、灌漑溝」を意味する言葉で、人の手によって人工的に作られたものです。ヒゼキヤがエルサレムの防備を強化し,水の供給を確保するため,堅い岩を掘って城壁内のシロアムの池とギホンの泉を結ぶ533メートルの水道を作りましたが(Ⅱ列20:20,イザ22:9‐11)、おそらくこれが詩篇46:4にある川の「流れ」と思われます。また、バビロンに捕囚となった民はチグリス・ユーフラテスの流域で灌漑溝の強制労働をさせられていた可能性があります。彼らは灌漑溝の流れのそばになつめやしの木を植え、やがて(40年以上あとに)植えた木が実を結ぶのを実際に見たのかもしれません。

②「植わった」という恩寵動詞。

③「木」、中近東での乾燥地域では水の流れの近くでなければ、樹木は育ちません。ここの樹木は移植されたもので常緑樹です。「なつめやしの木」とも言われています。時が来ると、実を結び、葉もしおれない木のように、何をしても栄える(繁栄する、成功する)人をたとえています。彼らは捕囚となっていた間に神のトーラーに目が開かれ、「昼も夜もその教えを口ずさむ」ようになったのでした。それを通して霊的な宝を見出したのでした。「水路のそばに植わった木」と「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ人」とがつながったのかもしれません。

④原因は必ず結果を生みます。[水路のそばに植わった木]は、時が来れば実を結びます。その木が「なつめやしの木」であるならばおびただしいほどの実を結びます。イエスも「良い地に落ちた種は、30倍、60倍、百倍もの実を結ぶ」と言われましたが、そんな実り豊かな、想像を越えた収穫が約束されている人生に招かれた人は本当に幸いです。しかも「その人は、なにをしても栄える」のです。「栄える」と訳された「ツァーラハ」は、「貫き通す、突き抜く」という意味です。そこから「完結する、達成する、成功する、繁栄する」という意味が出ています。初志を貫徹する、これが信仰生活と言えます。ヘブル人には、晩年ほど人生は良いものだとする考え方があります。

⑤詩篇52篇8節、92篇12~14節にも同様なシミレ(simile)があります。
「しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。」(52:8)
「正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。・・・」(92:12~14)
ここに登場する樹木はすべて常緑樹です。

⑥「詩篇における木について」はこちら⇒参照


詩1篇(2) 「風に吹き散らされるもみがら」


(2)「悪者」(悪しき者、神に逆らう者)」(複)「レシャイーム」רְשָׁעִיםの直喩として、「風に吹き散らされるもみがらのようだ」がそうです。

〔語彙〕
①「もみがら」と訳された「モーツ」מוֹץは穀物を脱穀したあとに残る殻です。現代ではそれなりの利用価値がありますが、ここでは「風に吹き散らされてしまうはかない存在」としてたとえられています。特に、「もみがら」は、神の敵の群れを指すことが多いようです。彼らは「もみがら」にように、吹き飛ばされ、滅び失せ、自滅する運命にあります。どんなに一時羽振りがいいように見えたとしても、その運命ははかないのです。

②詩篇35篇5節にも「彼ら(私のいのちを求める者)を風の前のもみがらのようにし・・てください。」とあります。

③ホセア13章3節では「もみがら」の同義の比喩として「朝の霧」、「朝早く消える露」としても用いられています。

  • 詩篇における「正しい者」「悪者」の実態を、「水路のそばに植わった木」、「風に吹き散らされるもみがら」とそれぞれ詩的に表現することで、より鮮明なイメージができるようにしています。

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