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詩16篇の修辞

詩16篇の修辞

「測り綱(縄)が落ちる」という暗喩

16:6
(新改訳)
「測り綱は、私の好むところに落ちた。まことに、私への素晴らしいゆずりの地だ。」
(新共同訳)
「測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました。」
(バルバロ訳)
「測りづなは、私に分がよかった、そうだ、私のうけた物はすばらしい。」
(関根訳)
「はかりなわはわがために良き地に落ちた、いと高き者がわが嗣業を下さった。」
(岩波訳)
「縄が私には麗しいところに落ちた、〔わが〕嗣業こそ私の気に入った。」
(典礼訳)
「はかり綱は、わたしのためによいところに落とされた。わたしの受けたものはすばらしい。」
(高橋秀典訳)
「はかり縄は、私の喜びの地に落ちた。受け継いだ地はまことに美しい。」

  • 驚くべきことに、詩篇16篇の6節の翻訳は実に多様です。それぞれが原文の意味合いを出すために最大限のことばで表現しようとしています。
  • 最初の「測り綱」「測り縄」と訳された「ハヴァリーム」(「ヘヴェル」חֶבֶלの複数形)は、本来、土地の測量を行う者が、土地を区切るために用いたもので、それが「落ちた」とは土地が配分され、その境界線が明確にされたことを意味します。〔脚注〕
  • しかしここでの「測り綱(縄)が落ちる」とは比喩的に用いられています。つまり、「縄張りが決まる」ことです。換言するなら、「自分の人生の持ち場というべきものが与えられたこと」、あるいは「自分の果たすべき責任範囲が与えられたこと」を意味します。
  • 自分の持ち場、自分の果たすべき責任範囲において、それに満足している者もいれば、満足できずに年中不満をもっている者もいるでしょう。今の自分に満足しているかどうかということが、その人の「幸い」と大きく関係しているように思えます。人の目からはうらやましいと思われる立場にいたとしても、当人がその立場に納得して満足できなければ、幸いだいうことはありません。
  • 詩篇16篇の作者は主に対して「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」(2節)と告白しています。その主によって、自分に対して「測り綱が落ちた」とすれば、それはすばらしいものであるはずです。自分にとっても最もふさわしい持ち場が与えられたと確信できる者は、人が何と言おうとも、感謝することができ、喜ぶことができます。
  • 6節の後半の部分のヘブル語原文は、
    「実に」(「アフ」אַף)、「嗣業」(「ナハラーット」נַחֲלָת)、「美しい」(「シャーファル」שָׁפַר)、「私のために」(「アーラーイ」עָלָי)と、四つの言葉が並んでいます。つまり「実に、私のために(与えられた)嗣業は美しい(すばらしい)」という意味です。「シャーファル」は詩篇16篇6節にしか出てこない動詞ですが、すばらしいゆえに、「快く受け入れる」とも訳されます。。
  • 自分の人生が、神によって「縄張りが決められた」と信じて、快く受け入れて信じることで、その与えられた責任範囲に力と全神経を集中することができます。自分のなすべきことが他にあるように思うとき、力は拡散して、すべてが中途半端な生き方になってしまいます。自分に与えられた神からの「縄張り」、それは自分にとって良いものであり、輝かしいものであり、喜ばしいものであり、すばらしいものだと確信できる者は、力から力へと進み、「幸い感」はより増し加えられていきます。たとえ行き詰まったとしても、それが新しい境地を開く契機ともなります。私はそんな歩みをこれからもしていきたいと思います。

脚注〕
ちなみに、詩篇18篇5節では「死の綱は私を取り巻き」、次節の6節では「よみの綱は私を取り囲み」」という表現で「綱」(「ヘヴェル」חֶבֶל)が使われています。人の心を支配して恐れさせる敵の力がたとえられています。


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