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詩18篇の修辞

詩18篇の修辞

「雷鳴を響かせる」という換喩

13節「主は天から雷鳴を響かせる」(新改訳)
14節「主は天から雷鳴をとどろかせ」(新共同訳)

  • 詩篇18篇には、自然界のさまざまな表象が比喩として用いられています。その中でも神の敵に対する顕現のしるしである「雷鳴を響かせる」、「雷鳴を轟かせる」という表現を取り上げてみたいと思います。
  • 詩篇16篇では、神が作者に対して与えた持ち場、責任範囲、嗣業、祝福を「測り綱(へヴェルחֶבֶל)」とし、それが自分の好むところに落ちたと表現しています。つまり、それが自分にとってすばらしいもの(いわば自分の縄張り)として受けたと確信しています。ところが、同じ「綱(へヴェルחֶבֶל)」が、詩篇18篇4節では「死の綱」が作者を取り巻き、「よみの縄」が作者を囲んでいるとしています。「へヴェル(חֶבֶל)は、破滅や滅びをも意味します。つまり、自分の力ではどうすることもできない、ただならぬ状況に置かれていることを意味しています。表題にもあるように、ダビデはそのようなところを何度も通らせられたのです。それは主の力をダビデに経験させるための神の教育的訓練でした。
  • どうにもならない、ただならぬ状況の中で、「主は、天を押し曲げて降りて来られ」(9節)、「雷鳴を響かせて(轟かせて)」敵を散らし、敵をかき乱されたことで、ダヒデは救われました。神への信頼は私たちの頑張りでできることではなく、その人生においてどうすることもできない状況の中で、神が行動を起してくださったことで救われた経験を何度も繰り返しています。この経験を多く持つことで、より神への信頼度は深まっているように思えます。
  • 13節の「雷鳴を響かせ」という表現は、同節後半の「いと高き方が御声を発せられた」と同義で、パラレリズム(同義的並行法)です。「いと高き方は御声を発せられる」という神の怒りの意思を表現する換喩ともいえます。旧約では11回。詩篇では4回使われていますが、18篇13節と29篇3節では「神の威厳と怒り」を表わすものとして使われ、96篇11節と98篇7節では主の勝利による「自然界の喜び」として表わされています。
  • 敵に対する神の怒りを、天から雷鳴を響かせることとして表現しています。「雷鳴が響く」ということは、そこに雲が起こり、風が吹き、稲妻とともに雹や強い雨を地上に降らせます。それによって敵の軍隊は戦えない状態になるのです。そして勝利がもたらされます。このことが重要です。
  • サムエル記第一7章10節では、サムエルがイスラエルをさばいていた頃、ペリシテ軍が戦いを仕掛けてきたとき、サムエルは全焼のいけにえをささげて、主に叫びました。すると主はペリシテ人の上に大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので彼らはイスラエル人に打ち負かされました。そしてサムエルは一つの石を取り「ここまで主が私たちを助けてくださった」という意味で、「エベン・エゼル」、つまり、「助けの石」と名づけて神の救いの出来事を記念しました。ちなみに、石を意味する「エベン」(単数)は、メシアであるイェシュアを示唆する語彙でもあるのです。
  • 他にも、サムエル記第一2章10節で、サムエルの母ハンナが「主ははむかう者を打ち砕き、その者に雷鳴を響かせる」と歌っています。士師記4章では、カナンの王ヤビンと将軍シセラと戦った女預言者デボラと将軍バラクが勝利します。しかしその勝利は主によってもたらされたことをデボラとバラクは歌っています(士師記5章)。具体的には、大雨が降ることで敵の戦車(九百両)の威力は発揮できず、むしろそれが足手まといとなって敗北を期します。神が立ち上がられる戦いでは、このような自然界を巻き込んだ形で神が敵を散らされることがあるのです。
  • 「雷鳴が響く」とき、そこには敵が敗北して、神の勝利がもたらされるという意味があるのです。新約聖書ではヨハネ黙示録においてのみ、「雷鳴」が出てきます。それは大群衆の神を賛美する声そのものであり、また神のさばきがもたらされる怒りであり、神の究極の勝利がもたらされるのです。

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