詩23篇の修辞
詩23篇の修辞 「いつくしみと恵みとが私を追ってくる」という擬人法
- 詩篇23篇は、「羊飼いと羊」、「主人と客人」というアナロジー(類比)で、神と私たちとのかかわりを表現したすばらしい詩篇ですが、その神の恩寵としてのかかわりの結論として、23:6では、「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう。」と表現しています。
- 「追いかけて来る」と訳された「ラーダフ」רָדַף(radaph)は、敵を追う、追いかける、追いつく。あるいは、敵から追いかけられる、追いつかれる、迫害されるといった意味ですが、ここでは、主の「いつくしみと恵み」が擬人化されて「私を追ってくる」としています。文語訳では「我にそひ来らん」と訳され、口語訳、フランシスコ会訳も「わたしに伴う」と訳しています。
- どこまでも追いかけてくる、いつでも伴なっている「いつくしみと恵み」。そのことに気づく者は幸いです。私たちは何かの問題にぶつかるとき、この恩寵の現実を忘れ、思い悩んでしまうことが多いのです。しかし、自分の生涯のすべてにおいて「毎日、毎日」、私に伴っている「いつくしみと恵み」に気づくなら、主との交わりは揺るぎないものとなるはずです。
- ダビデにとって、この恩寵への気づきは不条理とも思える現実の中で培われました。サウル王による執拗な追跡の中で養われた神の「いつくしみ」と「恵み」は、詩篇の中でもしばしばワンセットで用いられています。たとえば、「ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」(106:1/107:1/118:1)
- ちなみに、「いつくしみ」と訳された「トーヴ」טוֹבは、惜しみなく良いものを与えたいという神の好意を表わすことばです。私たちの天の父はそのようなお方であることを、御子イエスは明らかにされました。「いつくしみが追いかけてくる」とは、良いものを与えることを喜びとされる父がいつも、毎日、毎日、私とともにおられることを意味します。また、「恵み」と訳された「ヘセド」חֶסֶדは、どこまでも真実なかかわりを意味することばで、不変の愛、確固とした愛、ゆるがない一貫した愛を意味します。英語では、constant love, steadfast love, mercy, loving-kindness と訳されています。「恵み」が追いかけて来るとは、そのような愛のかかわりを持つべく御父がいつも共にいるということを意味します。
- たとえ四方八方塞がれて、途方に暮れるようなことがあったとしても、天だけはいつも開いていると気づかせられることも、「いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう」という意味と同義と言えます。神の恩寵の真実に日々生かされる者でありたと思います。
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