詩4篇の修辞(2)
詩4篇の修辞(2) 「義のいけにえ」
- 本来、旧約において「いけにえ」は、神との交わりを保持するためには必要不可欠なものでした。「いけにえ」は動物によるものであり、血による注ぎが求められました。モーセの幕屋においては「全焼のいけにえ」(任意)、「穀物の供え物」(任意)、「和解のいけにえ」(任意)、「罪のいけにえ」(強制)、「罪過のいけにえ」(強制)がささげられました。これらのいけにえは、神に対する愛と感謝を表現するものでした。しかし人間の罪性がいけにえを中身を伴わない形ばかりのものとしました。
- 本来、「いのち」はそれを包む「形」を必要とします。神との愛のかかわりを表現するためには形、形式が必要です。たとえば、感謝の心を表すためには、プレゼントをするとか、手紙を書くとか、口で「ありがとう」と言ったりします。しかし、形式は中身である「いのち」がなくても存在できます。形式にのみこだわるとき、律法主義が台頭します。逆に、中身のいのちにこだわるとき、それに見合った新しい形が生まれてきます。
- ダビデの時代には、「モーセの幕屋」のいけにえの内実は空洞化していました。ですから、ダビデは新しいいのちを包む、新たな形を造り出さなければなりませんでした。それが「ダビデの幕屋」という新しい礼拝形式でした。しかし、その形式は動物によるいけにえではなく、それにかわる精神化されたいけにえでした。詩篇4:5にある「義のいけにえ」がそれです。他に、「感謝のいけにえ」(50:14,23)、「喜びのいけにえ」(27:2)、「賛美のいけにえ」(107:22, 116:17)、「従順のいけにえ」(40:)、「悔いた、砕かれた心のいけにえ」(51:17)です。ダビデは従来の「モーセの幕屋」の礼拝を残しながらも、「ダビデの幕屋」という新しい礼拝のあり方を追求し、後に、その二つをソロモン神殿において総合しようとしたのです。
- しかし、そのソロモン神殿においての礼拝もやがてはいのちを喪失して行きました。これを再び建て直されたのは、神の御子イエス・キリストです。彼は、肉体を取ることによって、いけにえとなり、十字架の上で血を流されたことによって、神との新しい契約、一回限りの、しかも永遠に有効ないけにえとなられただけでなく、神に対する「義」と「感謝」と「賛美」と「喜び」と「従順」のいけにえとなられたのです。そのことを「思い起こす」ことが聖餐式です。御子イエスだけが十字架において、神(御父)の心を決定的に満足させたいけにえなのです。
- 詩篇4:5にある「義のいけにえをささげる」という比喩は、私たちがイエス・キリストにしっかりとつながり、とどまることを意味します。イエスが語られたことを忘れてはなりません。
「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができません。」(ヨハネ15:5)
このイエスの言葉の真意を悟ることが、「義のいけにえをささげる」ことなのです。
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