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詩7篇の修辞

詩7篇の修辞

「心臓と腎臓」という比喩(暗喩)

  • 「正しい神は、心と思いを調べられます。」(7:9)

はじめに

  • 詩篇7篇の9節にある「心と思い」と訳されている箇所をいろいろな聖書で見てみます。

    (新改訳、フラシスコ会、典礼訳)・・「心と思い」
    (口語訳)・・「人の心と思い」
    (新共同訳)・・「心とはらわた」
    (岩波訳、関根訳)・・「心と腎(むらと)」

  • 原語では、前者の「心」は「レーヴ」לֵב、後者の「思い、はらわた、腎(むらと)」は「キルヤー」כִּלְיָה。しかもそれぞれ複数形で使われています。「レーヴ」も「キルヤー」も、本来的には、「心臓」と「腎臓」を意味する言葉です。ここではそれがメタファー的な意味として使われています。旧約聖書では、しばしば、「心と思い」(あるいは「思いと心」)がワンセットで使われています。他にも、詩篇26:2、エレミヤ17:10、20:12を参照。

1. 聖書が意味する「心」・・・「レーヴ」לֵב(脚注)

  • 「心」と訳されているヘブル語は「レーブ」です。「心臓」を意味します。しかしその意味するところは、私たち日本人が考えるところの「心」とは違っています。旧約聖書でいう「レーブ」の意味の第一は、情緒ではなく、理解力を意味します。耳の働きは聞くことで、目の働きは見ることですが、心(レーブ)の働きは理解すること、つまり「悟る」ことです。確かに、日本語の「心」は、知性、感情、意志のすべての働きを意味していますが、どちらかといえば、情緒に重きが置かれるような気がします。しかしヘブル語の「レーブ」は、むしろ知性と意志の働きと強くかかわります。
  • 聖書の中によく出てくる「心の中でいう」という表現―たとえば、創世記17:17で、不妊のサラが子を生まれると聞かされたアブラハムは、ひれ伏して笑い、「心の中で言った」とあります。『百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、90歳の女が子を生むことができようか。』―ここの「心の中で言った」とは、口に出さずにいたということを意味するだけでなく、それは理性的に考えてあり得ないと考えたという意味です。
  • 同じような用法が詩篇14篇1節にも出てきます。「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。」という表現がありますが、この場合も、口に出さずにぶつぶつ言っているという意味での「心の中で」という意味ではなく、考えた末に、「神などいない」と結論したという意味です。
  • また、レーブは理性だけでなく、意志の働きとも深くかかわっています。「計画・意図・良心・決断」の意味を含んでいます。たとえば、詩篇24篇3節、4節の「だれが、主の山に登りえようか。だれがその聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者・・・」とあります。「手がきよい者」とは、悪事を行なわない人という意味ですが、「心がきよらかな者」とは、悪事を意図しない人のことです。つまり、聖所に立てる者とは、悪を行なわないだけでなく、それを意図したり、計画したりしない人という意味です。
  • このように、「心」と訳されたヘブル語の「レーブ」は、私たち日本人の「心」とはニュアンスが異なります。情緒的な意味合いよりも、知性、意志の意味合いの強いことばです。

2. 聖書が意味する「思い」・・・「キルヤー」כִּלְיָה

  • では、情緒的な意味合いのもった「心」を意味することばがあるとすれば、それはどんなヘブル語かと言えば、「思い(腎臓、はらわた)」と訳された「キルヤー」ということばです。
  • この「キルヤー」は、いけにえとなる動物(牛や羊、山羊)の腎臓という意味で出エジプト記(29:13, 22)、レビ記(3:4, 10, 15/4:9/7:4/8:16,25/9:10,19)などで使われていますが、比喩的には、そこは人の内奥にある感情を司る器官と考えられていたようです。
  • 「キルヤー」は、詩篇139篇13節の「それはあなたが私の内臓(直訳は腎臓)を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」にも使われています。「キルヤー」は最も深い情動の座を意味することばです。この「キルヤー」が詩篇7:9、16:7、26:2、73:21にも使われています。訳語ではこの「キルヤー」が「思い、心、内なる思い」(新改訳の場合)と訳されています。英語では「キルヤー」を、heart, mind, inmost being, と訳しています。他の聖書箇所としては、箴言23:16、エレミヤ11:20/12:2/17:10/20:12、哀歌3:13を参照。

3. 「心と思い」を調べられる神

  • 「正しい神は、心と思いを調べられます。」(7:9)の「調べる」とは「テストされる」ことです。この聖句の最も良い注解は、新約聖書のヘブル書4:12,13ではないかと思います。以下は、その箇所の引用です。

    【新改訳改訂第3版】ヘブル書
    4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
    4:13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。


    【リビングバイブル】
    4:12 神様のことばは生きていて、力にあふれています。 それは、鋭い刃物みたいに切れ味がよく、心の奥深くに潜んでいる思いや欲望にまでメスを入れ、私たちの赤裸々な姿をさらけ出します。
    4:13 神様はすべての人の心を、その人がどこにいようと、探り知るお方です。神様に造られたもので、その目から隠れおおせるものは、一つもありません。 今も生きて、すべてを見抜かれる神様の前に、裸のままさらけ出されているのです。 私たちはこの方に対して、自分のした、いっさいのことを、弁明しなければなりません。


  • 私たちが、「心と思い」を調べる神に対して、自分のしたいっさいのことを弁明しなければならないとすれば、とても神に対して弁明できる自信はありません。しかし感謝なことに、私たちの救い主、イエス・キリストが、私に代わってとりなし、私たちのために弁明してくださるのです。弁護者として。

脚注
雨宮 慧著「旧約聖書のこころ」(女子パウロ会、1989)の133~142頁を参照のこと。


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