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預言者的遠近法(二段階的啓示)改訂


13. 預言者的遠近法(二段階的啓示)

【聖書箇所】13章1節~9節

ベレーシート

●預言者に語られる主のことばは、その時代、その時代の人々に語られる事柄だけでなく、神のご計画のマスタープランの終わりの時点からしばしば語られています。しかしそれは時間軸をもたない二次元のピクチャーのように(幻や夢、あるいは言葉)して見せ、聞かせられるのです。このことを預言者的遠近法と言います。このことを念頭に入れながら、世の終わりの視点から聖書のパズルを組み合わせていく必要があります。

画像の説明

【新改訳2017】ゼカリヤ書13章1~9節
1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。
2 その日──万軍の【主】のことば──わたしはもろもろの偶像の名を、この地から絶ち滅ぼす。それらの名はもう覚えられない。わたしはまた、その預言者たちと汚れの霊をこの国から除く。
3 なお預言する者があれば、その人を生んだ父と母が彼に向かって言う。『あなたは生きていてはならない。【主】の名を使って?を告げたから。』彼が預言しているときに、彼を生んだ父と母が彼を突き刺す。
4 その日、預言者たちはみな、自分が預言する幻を恥じる。彼らはもはや人を欺くための毛衣を着なくなる。
5 また彼は、『私は預言者ではない。私は土地を耕す者だ。若いときに人が私を買い取った』と言う。
6 だれかが『あなたの両腕の間にある、この打ち傷は何か』と聞くなら、彼は『私の愛人たちの家で打たれたものだ』と言う。
7 剣よ、目覚めよ。わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ──万軍の【主】のことば──。羊飼いを打て。すると、羊の群れは散らされて行き、わたしは、この手を小さい者たちに向ける。
8 全地はこうなる──【主】のことば──。その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。
9 わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『【主】は私の神』と言う。」


1. メシアの初臨に起こる事と再臨に起こる事

●旧約の預言書には「初臨」と「再臨」の啓示はありません。あるのは主の「来臨」です。しかしゼカリヤ書13章では、メシアの初臨に起こる事と再臨に起こることが7節と8節で、隣り合わせにして語られています。

7節・・メシアの初臨に起こる事
剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。──万軍の【主】の御告げ──牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、わたしは、この手を子どもたちに向ける。

「剣」とは、神の民を正しく指導しない指導者たちの象徴です。
「わたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。」の「わたしの牧者」とはメシアのことで、「わたしの仲間の者」も同義です。原文では「攻める」(立ち向かう)という動詞はありません。「目を覚まして、わたしの牧者のうえに、わたしの仲間の上に」となっています。
「わたしの仲間」と訳された原文は「ゲヴェル(גֶּבֶר)・アミーティ(עֲמִיתִי)」で、「同僚、隣人」を意味します。口語訳は「わたしの次に立つ人」、新共同訳は「わたしの同僚であった男」と訳しています。主の最も身近な人、主と一体となっている人、主の分身とも言える存在といえば、それはメシア・イェシュアしかおりません。イエスは「父とわたしとは一つです」(ヨハネ10:30)と宣言されました。

ここでは、驚くべきことに、主がユダヤの指導者たちである「剣」に対して、その彼を打ち殺すように命じているのです。これはやがてメシアが十字架の死によって死ぬことを預言したものです。もし、父から遣わされた御子イェシュアが死ぬことがなかったとしたら、彼はメシアではなかったことになります。神には、御子がイェシュアがユダヤ人の指導者たちによって十字架で死ぬことによって、人類の贖いのわざを成し遂げるというご計画があったからです。
しかしユダヤ人の指導者とその民たちがメシアを拒絶し殺した事で、彼らは世界離散する結果になることも語られています。「わたしはこの手を子どもたちに向ける」(新共同訳では「小さいものを撃つ」)とは、そのことを意味しています。

8~9節・・メシアの再臨に起こる事
8 全地はこうなる。──【主】の御告げ──その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。
9 わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民」と言い、彼らは「【主】は私の神」と言う。

●長い間、世界離散していた神の民(ユダヤ人、全イスラエル)を神はイスラエルに集められますが、彼らがイェシュアをメシアとして受け入れさせるために、神は反キリストを通して大患難の試練を与え、そのことを通してイスラエルの民に主の御名を呼び求めさせるようにする、というのがここでの預言です。反キリストによる迫害、自然界における様々な異変による災害、そして最後のハルマゲドンの戦いを通して、ユダヤ人の三分の二は死にます。しかし、残りの三分の一は火の中で製錬される銀のように練られ、その中で彼らは再び神の真の民(イスラエルの残りの者)として純化された後に、キリストは地上再臨されるのです。


2. メシアの再離時に起こる他のパズル

●13章において、他にも、「その日に」つまりメシアの再臨において起こるいくつかの事柄を見ると、以下の事柄があります。

(1) 罪と汚れをきよめる「一つの泉が開かれる」(1節)

●聖書で「泉」(ヘブル語は「マーコール」מָקוֹר)は神ご自身の象徴です。しばしば「水の源」「いのちの泉」として表現されています。エレミ2章13節では、「湧き水の泉であるわたしを捨てて」とあります。同、17章13節では「いのちの水の泉、主を」とあります。後に、イェシュアが仮庵の祭りの大いなる日(終わりの日)に、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書がいっているように、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる」と語られました。この「生ける水の川」とは御霊のことです。この御霊の約束はイェシュアの復活の日の夕べに、イェシュアが弟子たちに「息を吹きかける」ことで実現します。しかしゼカリヤ書13章1節に預言されている「一つの泉」が開かれるのは、大患難の終わりの頃、キリスト再臨の直前に開かれる聖霊の泉です。「イスラエルの残りの民」は、この泉の水を飲むことによって自分たちの罪を悔い改め、民族的な回心へと導かれるのです。ちなみに、そのキリストの再臨の時期は、主の例祭が啓示しているように、仮庵祭の時期です。

(2) 偶像礼拝からのきよめ、および偽預言者たちの除去(2~6節)

●「その日に」は、ユダの地から偶像礼拝が断ち滅ぼされ、および偽預言者たちも真のメシアの到来によって恥を受けます。彼らが再び立つことは許されません。

●イスラエルの長い歴史の中で、偶像礼拝と偽預言は神の民を神から引き離してきた最大の要因です。それゆえ「その日に」は、「偶像の名」は一掃され、偽預言者たちとその「汚れた霊」(ストイケイア)はすべて取り除かれるのです。


2013.10.9(2020.6.29/t.4876)
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