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顔と顔とを合わせて語る

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118. 顔と顔とを合わせて語る

【聖書箇所】 出エジプト記33章11節前半

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【読み】
ヴェディベル アドナイ エル モーシェー パーニーム エル パーニーム カアシェル ヴェダベール イーシュ エル レーエーフー

【文法】
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
【主】は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。
【口語訳】
人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られた。
【新共同訳】
主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。
【NKJV】
So the Lord spoke to Moses face to face, as a man speaks to his friend.
【NIV】
The LORD would speak to Moses face to face, as a man speaks with his friend.

【瞑想】

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出エジプト記33章11節の前半から「顔と顔とを合わせる」というフレーズについて思い巡らしたいと思います。このフレーズは旧約聖書5回、新約聖書に1回見られます。それらを見ると、ヤコブ、モーセ、イスラエルの民たちが、神の顔と顔とを合わせる経験をしたことがわかります。

最初の人アダムを造られたときに、神は人の鼻から息を吹き入れています。そのときにも顔と顔とが向き合っています。その向き合いのオリジナルは神ご自身のうちにあります。ヨハネはその福音書の冒頭に、「はじめにことばがあった。ことばは神と共にあった」と記しています。「ことばは神と共にあった」という「共に」とは、ギリシア語で「プロス」(προς)という前置詞が用いられており、それは「向き合った形で共にいる」という意味です。御父と御子とは永遠に顔と顔を向き合っている存在なのです。そのかかわりの中に人が神のかたちに似せて造られたのですから、神と人とのかかわりにおいても、本来の姿は「顔と顔とを合わせた」かかわりなのです。

人が罪を犯したあとに、「人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」(創世記3:8)とあります。「主の御顔を避ける」という表現は、神と人との本来あるべきかかわりが壊れたことを意味します。ですから、神の救いの究極は神と人とが「顔と顔とを合わせる」ことの回復にあることは言うまでもありません。ヨハネの黙示録ではその救いの究極を「神の御顔を仰ぎ見る」(22:4)と表現しています。

イスラエルの歴史における「預言者」
イスラエルの父祖アブラハムは神から「預言者」と言われていました(創世記20:7)。アブラハムはどのような意味において神から「預言者」と言われたのでしょうか。その答えは申命記 34章10節にあります。そこには「 モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を【主】は、顔と顔とを合わせて選び出された。」と記されています。つまり、預言者とは「顔と顔を合わせている者」であり、「神との親しいかかわりを許されている者」、それゆえに、「神の隠された秘密を知っている者」、また「その秘密を人々に伝えるために神から信頼に値すると認められた者」といった意味なのです。

「顔と顔とを合わせる」親密さは、たとえ「顔と顔とを合わせる」というフレーズがなくても、預言者の系譜(エリヤ、エリシャ、アモス、ホセア、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル・・)の中に顕著に見られます。「預言者」に共通している特徴は、自分に与えられたことばが自分のものではなく、神からのものであり、それを他の人々に伝えるために受けたのだと確信しているということです。これが「遣わされた者」としての預言者の霊性を特徴づけています。

預言者のひとりであるモーセが、その生涯の終わりにこう語っています。
「あなたの神、【主】は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」(申命記 18:15)

「私のようなひとりの預言者」とは、「主と、顔と顔とを合わせるような預言者」のことであり、その預言者は単数です。第二のモーセ、つまり、メシア的人物である「終末の預言者」を指すものだと解釈されます。つまり、御子イエスのことです。御子イエスは永遠に「御父のふところにおられた方」であり、遣わされたこの地上においても、いつも御父と密接なかかわりを持っておられました。それは「顔と顔とを合わせている」関係です。それゆえ御子イエスが、自分の語ることばはわたしのものではなく、御父のもの、わたしを通して御父が語っているのだと言いました。一切、それに付け加えることなく、自分流に解釈したりすることなく、また、注釈したりすることもなく、御父の隠されていた御思いをまことの預言者としてありのままに語ったのです。

神の友として
ダビデも「ただひとつのこと」として、神の御顔を慕い求めた一人です。そのような者に神はご自身の秘密を啓示されます。それは「友」の関係です。「友」とは、神の秘密を知る者とされることです。
イエスはヨハネの福音書 15章15節で次のように述べています。
「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」

使徒パウロも、Ⅰコリント 13章12 節で次のように述べています。
「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」

パウロの言う「顔と顔とを合わせて見る」とは、「主を知ること」と同義です。イエスと「友」のようなかかわりの中に生かしていただくこと、そして隠された神の秘密を啓示していただけること、それが主にある者にとって、「ただひとつの願い」となりますように。


2013.7.15


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