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1.バビロン捕囚前・・・事件はヨシヤ王の死(BC609)から始まった

歴史書(2)」の目次

序1. バビロン捕囚前・・・事件はヨシヤ王の死(BC609)から始まった

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(1) ヨシヤ王の宗教改革

  • ヨシヤ王はユダ王国における最後の宗教改革をなした王であった。ヨシヤ王は、治世第8年に16歳の若さでダビデの模範に従って主を求め始め、第12年には断固として偶像除去を開始した。ヨシヤの主への熱意がこの勇気ある改革事業を断行させた。それはかつてのヒゼキヤの宗教改革よりも徹底したもので,その中には偶像礼拝者への厳しい処置も含まれていた。その改革は、第18年目には、宮で律法の書が発見された出来事をきっかけに頂点に達した。

(2) その霊的影響と実り(三人の預言者、エレミヤ、ダニエル、エゼキエルの輩出)

  • このヨシヤ王が治めていた約34年間に、やがてバビロン捕囚前と捕囚期に用いられる旧約聖書における三大預言者―エレミヤ、ダニエル、エゼキエル―が育っていた。エレミヤが召命を受けたのは、ヨシヤ王の改革翌年(B.C 627)である。
  • エレミヤはユダのバビロン捕囚前に遣わされ、民に悔い改めと従順を説いた。彼の預言場所はエルサレムであり、後に、不従順な民によってエジプトに連れて行かれる。エレミヤが「涙の預言者」と言われるのは、ヨシヤ王が主の律法を恐れ、悔い改めによって国を一掃したように、悔い改めの涙を持って預言したからである。エレミヤのヨシヤ王による影響は否定できない。
  • そうした主を恐れる姿勢はダニエルにも受け継がれた。ダニエルは、ヨシヤ王の時代にユダの貴族の息子として生まれ育った。「王族か貴族」(ダニ1:3)の家系として、両親と共に、ヨシヤ王との個人的な交わりを持った可能性は十分考えられる。先輩ヨシヤの主への情熱、実行力に触れることで、若いダニエルは純粋な信仰を燃え立たされ、義のために立ち上がるという改革者的精神を学んだに違いない。後に、バビロン帝国の王たちの前でダニエルが取った毅然とした信仰姿勢は、ヨシヤ王の改革精神に類似するものがある。
  • ダニエルは、ユダの王エホヤキムの治世第3年(BC.605年)に、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを包囲した折に、王族・貴族から数人を選んでバビロンに連れて行った(ダニエル1:1~3)。その後一生涯、ダニエルはバビロンの地で過ごした。
  • もうひとりの預言者エゼキエルは祭司の家系に生まれた(エゼキエル1:3)が、ダニエルの数年後、つまり、BC.597年に第一次捕囚の民と共にバビロンに連れて行かれた。ダニエルはバビロンの王宮で仕えたが、エゼキエルはケバル川の捕囚の民の間で仕えた。彼はダニエルとも親交があったようである。

(3) ヨシヤ王の不慮の死

  • ヨシヤ王が女預言者フルダに神のみこころを求めたとき、彼女の託宣はこうであった。「エルサレムに神の怒りが注がれるのは避けがたいことであるが、ヨシヤの謙虚な態度の故に,破局はヨシヤの時代には臨まない」と。(Ⅱ歴代誌34:23~28)
  • しかし事件はヨシヤの出兵から始まった.当時のアッシリヤは力が衰え,新興してきたバビロニヤがこれを西北方へ押しやっていた。アッシリヤ王とその軍隊はバビロニヤ軍に追われ,ユーフラテス川上流のカルケミシュまで追い詰められた。このアッシリヤへの援軍を率い〈エジプトの王ネコ〉が北上するという情勢の中で,それを阻止するためにヨシヤは軍を率いて〈メギドの平地〉でエジプト軍に戦いを挑んだ。ネコは「ユダを攻めるのではないから、軍を引け」と忠告したが、ヨシヤは聞き入れず、この戦いで彼は戦死した。B.C.609年、ヨシヤの死を全国民は悲しみ、エレミヤは彼のために哀歌を作った。
  • ヨシヤの死は、後の時代の背教と南王国滅亡という事態へとー坂道を転げ落ちるように、だれもとどめることのできない事態へとー急転する引き金となっていく。

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