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「イェシュア・ペン・ヨセフ」が意味すること

2. 「イェシュア・べン・ヨセフ」が意味すること

【聖書箇所】 マタイの福音書1章18~25節

ベレーシート

  • イェシュアの父である「ヨセフ」に注目したいと思います。ヨセフとイェシュアとは、実際には血のつながりのない親子(父子)関係なのですが、血筋的、系図的にはヨセフとイェシュアは父子関係なのです。ここでひとつの問いかけですが、なぜイエスの父親の名前が「ヨセフ」なのか、そのことについて考えたり、注目したりする人はおそらく少ないのではないかと思います。たまたま「ヨセフ」という名前だったのでは、と思っている人が多いと思います。しかし実はイェシュアの父親の名前が「ヨセフ」であったということの中に、神の深い秘密が、神の緻密なご計画のシナリオが隠されているのです。
  • 聖書に関する一つの学問の領域に「Name Theology」(名前の神学)というのがあります。最近、私は聖書をユダヤ的・ヘブル的視点から読むときに、この領域は非常に重要だと感じ始めています。人や部族の名前だけでなく、地名も含む固有名詞におけるつながりの世界です。
  • 聖書では、神の名前もいろいろな呼び方がなされています。例えば、「エロヒーム」אֱלֹהִים(複数の神の表現ですが、独一性を意味する創造の神の名前です)、他に、
    「エル・エルヨーン」אֵל־עֶלְיוֹן(いと高き神)、「エルシャッダイ」אֵל־שַׁדַּי(全能の神)、「アドナイ・ツェバオート」יהוה צְבָאוֹת(万軍の主)、「ヤーウェ、エホバ」(神聖四文字で「主」と表記されますが、ユダヤ人はみだりに名を唱えてはならないと十戒にあるので、彼らは「アドナイ」と発音します。へブル語の固有名詞にはみな意味があります。従って、神の独自の固有名詞の名前にもみな意味があるのです。神の固有名詞を知ることは神を知ることでもあるのです。ダビデは「主」という方を「私の羊飼い」(アドナイ・ローイ)と名付けました。そしてその方にあって「わたしは乏しいことは何一つない」(ロー・エフサール)と告白しています。つまり、「アドナイ・ローイ」である方は私の必要のすべてを満たす方であって、私は何一つ不足なことがないという意味なのです。
  • 名前にも、地名にも意味があるということが「Name Theology」の世界で、ヘブルの世界、聖書の世界においては重要な分野です。特に、これから聖書をユダヤ的・ヘブル的視点から読んでいく場合には密接にかかわってくる分野だと思います。そのためにはヘブル語の知識がどうしても必要となってきます。ヘブル語なんて、神学校とか専門家のレベルだと思われる方が多いと思いますが、これからの時代のクリスチャンホームの子弟、あるいは教会学校に来ている子どもたちには、当たり前のようにそれを教えて行かなければならない知識だと私は確信しています。
  • われらの救い主であるイエス、そのヘブル名は「イェシュア」ですが、その意味するところは「救い」です。私たち日本人が名前の前に苗字を持っているように、ヘブル人たちも苗字に当たるものを持っています。ただし、彼らの場合の苗字は「〇〇の子」、あるいは地名を表わす「場所の名前」です。ちなみに、イェシュアの場合、「ヨセフの子イェシュア」とか、「ナザレのイェシュア」と呼ばれますが、「ヨセフの子」「ナザレの」の部分が苗字の役割を果たしています。名前と職名が一つになって「イェシュア・メシア」(イエス・キリスト)という言い方もあります。
  • ところで、マタイの福音書ではイェシュアの誕生の時において、父となるヨセフが登場します。ところが、イェシュアがこの地上に遣わされて贖いという身代わりの死という使命を成し遂げられた後に、そのイェシュアの亡骸を引き取って自分のために備えてあった墓に葬った人物が登場します。その人の名前は「アリマタヤのヨセフ」です。イェシュアのマリヤの胎における懐妊と死、イェシュアの人生の始まりと終わりに「ヨセフ」という名前がかかわっているのです。これは単なる偶然でしょうか。それとも何かそこに隠されたつながりが巧妙に意図されているのでしょうか。聖書をユダヤ的な視点から、ヘブル的視点から読むということは、こうしたことにも着目し、その意味するところを思いめぐらすことでもあるのです。なぜなら、神から遣われた御子イェシュアはそれまでの旧約聖書の中に啓示されてきたことを満たす(実現、成就する)ために遣わされたからです。つまり、イェシュアは旧約とはきわめて深いつながりをもっている存在なのです。
  • 前回の瞑想でも取り上げたように、イェシュアの生まれた場所は「ベツレヘム」でした。クリスマスのあらゆる出来事―ローマ皇帝アウグトスの住民登録の勅令とそれによるヨセフとマリヤのナザレからベツレヘムへの移動、力ある者がベツレヘムで生まれるというミカ書の預言、ダビデの出生地、最初に誕生の知らせを聞いた羊飼いたちの存在、東方の博士たちの来訪、ヘロデによる二歳以下の男の子の殺害、ルツとボアズの結婚―などのすべての事柄が、実はベツレヘムという惑星を中心に回っている衛星のように緻密に位置づけられているのです。とすれば、イエスの父の名前が「ヨセフ」であったということも決して偶然のことではなく、必然的な神の意図があったに違いないと信じます。「ヨセフ」という名前の中に隠された秘密とはなにかを探ってみたいと思います。

1. ヨセフという人物のプロフィール(従来の視点)

  • マタイの福音書1章19節を見てみましょう。そこにはいいなづけのマリヤの懐妊を知ったヨセフの恐れがあります。「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にしたくはなかったので、内密に去らせようと決めた。」とあります。それはどういうことでしょうか。このヨセフの決断の背景には、ヨセフが許嫁のマリヤから「聖霊によって」懐妊したことを聞かされていたという前提があります。しかし果たしてそのことを誰が信じることができるでしょう。ヨセフが恐れたのはもっと差し迫った現実的な問題でした。マリヤはヨセフにこのことを伝えたことでいくらか心が軽くなったに違いありません。しかしヨセフは逆に大きな重荷をかかえることになったのでした。ここでヨセフについてスポットを当ててみたいと思います。

(1) ヨセフが「正しい人」であった
①律法(トーラー)に忠実な者、厳格な人。
②神とのかかわりが「義しい人」(岩波訳)、あるいは「曲がったことのきらいな性格」(L.B)を意味します。

(2)「彼女をさらし者にはしたくなかった」
①他の男と関係をもった娘をめとることは、律法が禁じていました。また、婚約中の女性が相手以外の男性と寝た場合は、姦通罪として厳罰に処せられました(申命記22章23~24節)。
②このまま婚約を続けていれば、マリヤは不貞を犯したということで周りから責められ訴えられることになります。不貞の罪は石打ちで処刑されるのが律法の定めでした。新改訳の「さらし者にはしたくなかった」とは、柳生訳「表ざたにするにしのびず」、新共同訳、フランシスコ会訳「表ざたにするのを望まず」、山岸訳「公に暴露したくなかった」とあります。これはヨセフのマリヤに対する愛のゆえであったと思われます。

(3)「内密に去らせようと決めた」
①マリヤに対する愛のゆえに、ヨセフは彼女との婚約をひそかに解消して、縁を切って別れる決断をしたということ
②しかも二人が遠く離れて会えない状態にすること
③マリヤには内緒で、すべてを内密に済ませるつもりでいたということ。
④このヨセフの決断は、自分が愛し、大切に思っていた彼女を失うことを意味していました。
岩波訳「ひそかに離縁しようと思った」、柳生訳「ひそかに彼女との婚約を解消しようと考えていた」、フランシスコ会訳「ひそかに離縁しようと決心した」、新共同訳「ひそかに縁を切ろうと決心した」

以上のようなことを、ヨセフは「思い巡らしていた」(柳生訳「思い悩んでいた」)のです。これはヨセフのマリヤに対する愛と責任感の強さを物語っています。職業は大工ではありましたが、その人格はとても責任感のある「正しい人」で几帳面な性格。しかも優しい人であったのです。

  • しかし、このような見方では、なにもイェシュアの父は「ヨセフ」という名前でなくても良かったのです。イェシュアの父親の名前が「ヨセフ」でなければならなかった必然性は果たしてあるのでしょうか。あるとすればいったいどこにあるのでしょうか。実は、この箇所にひとつのヒントが置かれているのです。そのヒントとは、ヨセフが御使いのメッセージを「夢の中で聞いている」という点です。
  • まさに「夢見るヨセフ」です。・・興味深いことに、主の使いがヨセフに語るときには、いずれも「夢の中」に現われて語っています。4回―1:20~23/2:13/2:19~20/2:21。
    しかも、ヨセフは夢の中で語られた主の使いのことばになんのためらいもなく素直に従っています。この従順さこそヨセフの特質と言えます。「おことばどおりこの身になりますように」というマリヤの従順がたたえられることが多いのですが、ヨセフのそれはマリヤに決してひけを取らぬほどです。しかしなぜヨセフに対する主の使いは「夢」の中に現れるのか不思議です。しかも主の使いがヨセフに一方的に語るという点でも一貫しています。祭司ザカリヤにしても、処女マリヤにしても、羊飼いにしても、主の使いが現われていますが、それは夢の中ではなく、みな目に見える形で現われています。使徒の働きでは、使徒ペテロに対して御使いが現われますが、その場合、わざわざ寝ているペテロを起こしてから語りかけています(使徒12:7)。それなのになぜヨセフだけが特別に「夢の中で」語られているのです。その点にこそ、あることを明確に指し示していると言えます。その指し示していることとは、旧約の「ヨセフ」という人物です。

2. ヘブル的視点から見た「ヨセフ」という名前の必然性は、旧約の「ヨセフの生涯」にある

  • 「ヨセフ」という名は、旧約聖書では創世記37章以降の主人公で、父ヤコブから偏愛された子の名前でした。後にエジプトの宰相となって父ヤコブと自分の兄弟たちを救うことになる人物ですが、彼は実は「夢解きの名人」でした。ですから、イェシュアの父となるヨセフにのみなぜ特別に夢の中でメッセージが告げられたのか、それは旧約のヤコブの11人目の息子「ヨセフ」の生涯と密接につながっているからです。単に、「夢見るヨセフ」だけでなく、ヨセフの生涯そのものが、イェシュアの生涯を啓示しているという事実です。
  • イェシュアの父がヨセフという名前であったことは決して偶然ではありません。イェシュアの生涯のすべての事柄や出来事は、予め、神の緻密なご計画によって啓示され、仕組まれていたのです。イェシュアかベツレヘムという場所で生まれたことも、またガリラヤで宣教を開始れたことも、また受難という苦しみを受け、十字架にかかることもその時期も、そして息を引き取られる時刻もすべて神のご計画のシナリオ通りなのです。そうした神の秘密を知るとき、私たちは歴史を支配し、歴史を動かして導いている神の主権性ということに驚かされるのです。旧約で起こったことが、そのパターンが不思議にも繰り返されるのです。そうした神のシナリオに対して目が開かれることは、これから神がどのようにご自身のご計画を実現されるのか、見えてくるようになるのです。つまり、神と共に歩むとは、神のご計画を知り、夢を解き明かすように、神の隠された秘密が何かを知り、そこに自らを合わせていくことなのです。

3. ヨセフの生涯に啓示されているイェシュアの生涯

  • 「ヨセフ」という名前が聖書ではじめて登場するのは創世記です。ヤコブの最愛の妻ラケルが産んだ子、それがヨセフでした。ヤコブにとっては11番目の子どもです。ヨセフという名前は母ラケルが付けた名前です。その名前が意味することは「主がもうひとりの子を加えてくださるように」という願いを込めてつけられた名前です。このラケルの祈りが聞かれて、もうひとりの息子、ヤコブにとっては最後の息子であるベニヤミンが生まれるのです。ヘブル語で「加える、引き継ぐ」という動詞を「ヤーサフ」יָסַףと言いますが、そのことばから派生した名前の「ヨセフ」なのです。つまり、ヨセフという名前は、彼の後に加えられる者がいること、彼に続く、引き継ぐ存在がいることを啓示しているのです。
画像の説明
  • ちなみに、ヨセフに「加えられた」のが弟のベニヤミンでした。これは一つの型で、イェシュアの使命を引き継ぐために最後に選ばれた使徒がパウロです。しかも彼はベニヤミン族の出身なのです。このつながりも実に興味深いものがあります。聖書にはこのようなかかわりが至る所に隠されているのです。なにしろ聖書の歴史のドラマのシナリオの制作者は神であり、しかもディレクターも神なのですから、そんなことは当然と言えば当然なのですが、そうした隠された秘密を発見することで、「心が燃える」経験をさせられるのです。「Name Theology」―ますます興味深くなっていく領域です。
  • さて、今回の焦点となっている「ヨセフ」、その「ヨセフの生涯」のひとつひとつが、実は「イェシュアの生涯」を啓示しています。以下、そのことを検証してみたいと思います。

4. イェシュアと旧約聖書

  • このように、ヨセフ物語の中に、驚くほどその生涯がイェシュアの生涯に重なっているのでするこのことは何を意味するでしょうか。あるとき、イェシュアはご自分に反対するユダヤ人らに「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書(旧約聖書のこと)が、わたしについて証言しているのです。」(ヨハネによる福音書5章39節)と言われたことがありました。キリストを証言している。「それなのに、あながたはいのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」と。
  • 旧約聖書には、イスラエルの律法、歴史、預言、知恵、詩編などが記されております。それはすべてイェシュアが生まれになる前の話であり、一部の預言を除いては、直接的にイェシュアを証ししているようには見えません。にもかかわらず、イェシュアは「これらはわたしについてなされた証言である」と言われました。それがとても大切なことなのです。逆に言えば、旧約聖書を読むならば、イェシュアのことがいろいろな形で指し示めされているということなのです。
  • エマオの二人の弟子がイェシュアが十字架にかかって死んでしまわれたことに絶望して、エルサレムを離れていこうとしていました。すると、復活されたイェシュアが彼らに近づき、彼らに聖書を解き明かして、「メシア」は苦しみを受けて、それから栄光に入るはずのではと説明されました(ルカによる福音書24章25~27節)。二人の弟子たちは、イェシュア自ら聖書をひもといて話していかれるのを聞いて、心が燃やされて、信仰を取り戻していったと書かれています。この時、イェシュアがお用いになった聖書も旧約聖書でした。
  • イェシュアの「苦難の後の栄光のメシア」についての話の解き明かしがどのような内容であったのか分かりませんが、その中に、当然ヨセフの話もあったのではないかと推測します。ヨセフはまさに不条理な苦難の後に、エジプトを支配することを王からまかされるという栄光を受けた人物だからです。それはイエスの生涯を啓示するものです。あるいはダビデが王となる前の10余年の放浪生活や、あるいはユダ王国のバビロン捕囚とその帰還といった話にもふれたかもしれません。預言者エレミヤはバビロンへの捕囚のことを「わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」として主の計画について語りました。まさにこれこそ栄光の前の苦難の経験です。
  • 使徒パウロもコリント人への手紙第一15章で次のように述べています。

【新改訳改訂第3版】
3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
5 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

  • 「聖書の示すとおりに」(聖書に書いてあるとおり)と、パウロが繰り返し語っています。ここでパウロが「聖書の示すとおりに」と言っているのも、「旧約聖書」のことです。新約聖書がイェシュアを証しする書物であることは言うまでもありませんが、旧約聖書もまたイェシュアが私たちの救い主であるということを力強く証言するあかしの書物なのです。ユダヤ人たちの旧約聖書は今日のキリスト教とは配列も分類も異なりますが、いずれにしても、旧約聖書全体を通して、救い主イェシュアのことについて啓示している書物であることには何ら変わりありません。
  • すべては神が語られ、神が啓示し、神が約束されたことがイェシュアを通して実現されるのだというその遠大な神のご計画を、私たちはもっと深く知り、そのゆるぎなさ、その確かさに触れていく必要があるのです。そのとき私たちは、あのエマオの途上にあった二人の弟子たちのように、「心燃える経験」をすることになるのです。この経験は神を知り、神の心を尋ね求める者にとってきわめて大切なものでり、聖霊による啓発と驚き、そして喜びをもたらす経験です。永遠のいのちはそのようにして新たに息づくのだと信じます。

2012.12.9


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