「今なお望みがあります」
エズラ記の瞑想の目次
10. 「今なお望みがあります」
〔聖書箇所〕 10章2節
- 「私たちは、私たちの神に対して不信の罪を犯し、この地の民である外国の女をめとりました。しかし、このことについては、イスラエルに、今なお望みがあります。」
はじめに
- 神殿の前で絶望し涙ながらに祈ったエズラの祈りは、非常に多くの民の心を動かしました。ともに「激しく涙を流して泣いた」(10:1)とあります。そのなかに、「私たちは、私たちの神に対して不信の罪を犯し、この地の民である外国の女をめとりました。」と告白すると同時に、「このことについては、イスラエルに、今なお望みがあります。」と言う者が起こされました。
1. 痛みを伴う改革の実行
- 「イスラエルに、今なお望みがあります」とはどういうことでしょうか。これは神の側に立って改革を実行するなら、という意味です。そしてエズラを助けるべく、「立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちはあなたに協力します。勇気を出して、実行してください。」と申し出ました。
- この申し出に従ってエズラは「立ち上がり」、イスラエルのリーダーたちにこの提案を実行するよう誓わせました。しかし、エズラの悲しみは簡単には癒えませんでした。「エズラは神の宮の前を去って、エルヤシブの子ヨハナンの部屋に行き、パンも食べず、水も飲まずにそこで夜を過ごした。捕囚から帰って来た人々の不信の罪を嘆き悲しんでいたからである。」(10:6)とあります。
- 改革を断行することは大きな痛みを伴います。その痛みを避けるなら将来の望みはありません。「今なお望みがある」というのは、罪に対しては今ここで大きな痛みをもって改革を行なうべきだという強い意志があります。民の中にこうした意志があることで、はじめてエズラは「立ち上がる」ことができました。
- イスラエルの民たちの中で「外国の女をめとった」者は全体から見るならば決して多くはありません。千分の一ほどです。しかしその中には大祭司ヨシュアの息子たちとその関係者もいたのです。また神に仕えるレビ人や聖歌隊の者たちもいたのです。彼らの妻の中にはすでに子どもを産んだ者もいて、事態は深刻でした。
2. この改革が意味すること
- 幸いにも、罪を犯した者たちは、自分の妻から離れる(出す)という勧告に同意しました。ここでの改革はある意味で成功したと言えます。しかしその根底にある罪は、かつてイスラエルの地を失い、神殿を失った罪と同じものです。バビロンの捕囚と解放という神の取り扱いを受けた後にもその同じ罪は犯されたのです。
- 神の御旨に従って生きることを得させない人間の罪性は、常に、繰り返し襲ってくるものです。神の民の再建、回復は根底にある深い罪に対しての戦いに勝利しなければなりません。これは神殿の再建以上に困難な取り組みなのです。
- イスラエルの民が神によって選ばれ恋い慕って愛されたのは、彼らが神の民として、神の律法に従って「聖なる民」となるべきだったからです。この「聖なる民」とは、他の国々のようではない国民、神の律法によって生きる民、人間の最も基本的なニーズである「生存と防衛の保障」を、神によって与えられて歩む特別な国民となるためでした。もし彼らが神の律法によって歩むことをしないならば、彼らのこの世における存在意義はなくなってしまいます。
- 神の民として生きるとはどういうことか、それは彼らの歴史すべてを通してあかしされる問いなのです。これはキリストにある私たちも同様です。イエスは「わたしから離れてあなたがたは何もすることができない」と言われましたが、キリストのうちにとどまり、キリストのことばと愛のうちにとどまり、キリストと共に、キリストにあって生きることはどういうことか、常に問われているのです。そしてそこから外れた場合には、人情でなく、神に従って、痛みを伴ってでも改革を実行する勇気を持てるかどうかが「なおも望みあり」とすることができるのです。
- エズラの神の民の再建(改革事業)は、キリスト教会の歴史の中でもなんども繰り返されてきました。しかしこの神の民の完成はキリストの再臨までずっと続いていくものです。現代においても、「立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちはあなたに協力します。勇気を出して、実行してください。」と言わせた「リーダーシップとフォロアーシップの生きた関係」が求められているのではないかと思います。真剣に、共に神の御声を聞いていこうとする神の民が求められているのです。
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