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「矢筒をその矢で満たしている人の幸い」(第二回ヒナヤーヴ・キャンプ)

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4. 「矢筒をその矢で満たしている人の幸い」(第二回ヒナキャン)

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  • 今回は、詩篇127篇3節「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である」に引き続き、4節と5節のみことばの意味を正確に理解したいと思います。この詩篇127篇の表題には「ソロモンによる」とありますので、そのままソロモンが語っているともいえますが、「人称なき存在」の声として読むこともできます。「人称なき存在」の声は、特に知恵文学(ヨブ記、詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌)において重要です。その声は聖霊の声そのものであり、神と私たちのかかわりを建て上げていく知恵であり、助け主です。ですから、この方の声を正しく理解する必要があります。
  • 詩篇127篇の後半部分である4節と5節のみことばを理解するために、少し内容を整理してみます。
    第一に、4節で「若い時の子ら」が「勇士の手にある矢(複数)」にたとえられています。
    第二に、5節では、その「勇士」が「矢筒をその矢で満たしている人」にたとえられています。そのような人は、「門で敵と語る時にも、恥を見ることがない」と語られ、「幸いなことよ」と言われています。今回のセミナーでは、このみことばを検証し、「人称なき存在」が語っている神の隠されたメッセージを受け取りたいと思います。

1. 「勇士」の意味

  • まず、4節を見てみましょう。

    【新改訳改訂第3版】
    127:4 若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。

  • ここでは、特に「勇士」に注目します。日本語訳の多くが「勇士」と訳しています。

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【口語訳】 壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ。
【新改訳改訂3】 若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。
【新共同訳】 若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。
【岩波訳】勇士の手にある矢のようだ。若き日の息子たちは。

  • さらにことばの意味を理解するために、問いかけてみまししょう。「勇士」とはどのような人なのか、単に「若い者」のことか。あるいは他の意味があるのだろうか。どのような原語が使われているだろうか。
  • その問いかけに対して、「勇士の」は原語「ゲヴェル」גֶּבֶרの形容詞「ギヴォール」גִּבּוֹרです。「ゲヴェル」人とはどういう人のことを言うのか。ヘブル語には「人」を表わす語彙として、アーダームאָדָם、イーシュאִישׁ、エノーシュאֱנוֹשׁ、ゲヴェルגֶּבֶרがあります。
  • ここで「ゲヴェル」の使用例を詩篇からいくつか取り上げてみましょう。
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(1) 詩篇34篇8節(新共同訳は9節) 
「幸いなことよ。彼(主のこと)に身を避ける者(冠詞付の「ゲヴェル」)は。」
(2) 詩篇40篇4節(同上、5節)
「幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人(冠詞付の「ゲヴェル」)は。」
(3) 詩篇94篇12節
「主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人(冠詞付の「ゲヴェル」)は。」

  • 以上の例から、「ゲヴェル」の意味合いが理解できます。たとえ年齢的には若くとも、主を信頼し、主のみおしえに教えられる柔らかな心を持つ者は、「ゲヴェル」な者、すなわち「勇士」だと解釈されているということです。しかしその内実は、自分の力によってではなく、主に信頼する者、主によって教えられる者を意味しています。
  • では次の問いかけです。「若い時(に主から与えられた)の子らは、まさに勇士の手にある矢のようだ」とありますが、それはどのような意味なのでしょうか。
  • 思うに、矢が勇士の手の中にあるということはあるべき最上の状態です。若い時に与えられた子どもを神のみおしえによって育てるとき、その親は子に教える前に神のみおしえを自ら学ぶ必要があります。「勇士(単数)の手にある矢(複数)」とはそのような関係を示しています。つまり、「教える」ことは「学ぶ」ことでもあるのです。ちなみに、ヘブル語の「ラーマド」לָמַדはこの二つの意味を兼ね備えた動詞です。親も子も共に教えられ、共に鍛えられ、共に育てられ、共に学ぶ、そのようなかかわりをもった親子関係(あるいは家族関係)こそが、5節にある「幸いなことよ」(アシュレー)につながっていくのだと思います。

2. 敵に対して恥をみることがない

  • 次に、5節のみことばを見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】
127:5 幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。
彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。

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【口語訳】 矢の満ちた矢筒を持つ人はさいわいである。
彼は門で敵と物言うとき恥じることはない。
【新改訳】 幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。
彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。
【新共同訳】いかに幸いなことか/矢筒をこの矢で満たす人は。
町の門で敵と論争するときも/恥をこうむることはない。
【岩波訳】 幸いだ、おのが矢筒を彼らで満たした男。
敵どもを門で撃退するとき、彼らは恥をかかない。※注
【関根訳】 その箙(えびら)に矢を満たし得たその人に幸あれ。
彼らは門でその敵を押し返す時に恥を受けることはない。
【NKJV】
Psa 127:5 Happy is the man who has his quiver full of them; They shall not be ashamed, But shall speak with their enemies in the gate.
【TEV】
Psa 127:5 Happy is the man who has many such arrows. /He will never be defeated /when he meets his enemies in the place of judgment.

  • 「撃退する」は「根絶する」「屈伏させる」(18:48/47:4)と訳された原語は、「語る」と訳される動詞「ダーヴァル」דָּבַרのピエル態で同形異義語です。歴代誌下22:10では「~の支配から脱する」、詩篇18:47, 47:3では「~を従わせる」というように使われています。
  • 古代訳以来、127:5の後半を「敵どもと門で語る」と読み、町の門での(申命記21:19等)裁判論争のことと解釈されて来たが、息子たちの存在(人数)が論争に有利だというのはおかしいという理由で、「ダーヴァル」のもう一つの意味を採用しています。岩波訳の「詩篇」脚注参照。
  • 詩篇127:5後半の構文は、直訳では「彼らは恥を見ることがない(あわてることがない)」が先にあり、その後に「なぜなら~だから」を意味する接続詞の「キー」כִּ־יが置かれています。「彼ら」とは矢筒と矢にたとえられている親子です。互いに神のトーラーを通して教え学び合っている親子です。そうしたかかわりを築いている「彼らは恥を見ることがない」のです。「なぜなら、彼らは門で敵(複数)を打ち負かすことができるから」です。ここでの「敵」がだれを指しているのか定かではありませんが、おそらく、主にある幸いな親子(家族)を破壊しようとする存在(偶像、価値観など)と言えます。

3. 矢筒の中に矢を満たしている人の責任と課題

  • 以上の検証の結果として、以下のことを言うことができます。

「矢筒の中に矢を満たしている」人がなぜ幸いなのかといえば、決して「恥をみることがない(狼狽したり、あわてたりすることがない)」からです。その根拠は、門で敵を撃退し、押し返し、打ち負かすからです。それができるためには、そうなるための当然の責任と課題が矢筒である人にあるはずです。その責任と課題とは何でしょうか。単に、矢筒に矢を満たしていることが幸いなのではありません。矢が矢として射られるときに、それが敵に対する強力な武器となるからです。「矢筒の中に矢を満たしている」人には、敵に対して矢を「射る」ということが想定されています。でなければ、矢筒に矢を満たす意味がありません。

  • 「射る」のヘブル語動詞は「ヤーラー」(יָרָה)です。その名詞形が「トーラー」(תּוֹרָה)です。それは弓術に関連した言葉で、「的を真っすぐに射抜く」という意味で、それが後に「教える」とか「指図を与える」という意味にもなりました。ですから聖書的には「トーラー」とは、愛に満ちた神から与えられた「的を射た」人生を歩むための「指針」ということになります。
  • 矢筒の中に矢を満たしている人は、その矢を神の「指針」(教え)によって整える責任と課題が与えられているのです。バビロン捕囚を経験したユダの民はその地において、二代、三代かけてトーラー・ライフスタイルを築き上げて行きました。それがエレミヤの言う「幸いな約束」であり、「将来と希望を与えるもの」だったのです(エレミヤ29:10~11)。祝福を「多く与えられた者は多く要求される」という原則があることを忘れることなく、神に対する責任と課題を果たさなければならないのです。ここに「ヒナヤーヴ・ミニストリー」の目的があると信じます。

4. 詩篇127篇4,5節の真理を補強する2つの記事

(1) 主の勝利の矢で地面を打つという預言的(象徴的)行為― Ⅱ列王記13章1節~25節

  • ユダの王ヨアシュの治世(23年目)に、北イスラエルではエフ―の子エホアハズが王となった時も、またエホアハズの子ヨアシュの治世になっても、依然として「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く」との格言どおり(ボタンのかけ間違いは続き)、神に対する罪を犯し続けました。それゆえ、神の父性的懲罰として、アラムの王ハエザル、およびハエザルの子ベン・ハダデの手に渡され、その結果、イスラエルはしいたげられていました。
  • そんな頃に、死の病をわずらっている預言者エリシャがわざわざヨアシュのところに赴き、王に弓と矢を手に取らせ、東側の窓を開けさせて、そこから矢を射るように命じました。エリシャはこの矢は「主の勝利の矢。アラムら対する勝利の矢、それで地面を打ちなさい」と命じたのです。この預言的行為は何を意味するのでしょうか。
  • 王のヨアシュは、エリシャが言われるようにしましたが、地面に三度矢を放ってそれで止めてしまいました。「神の人」であるエリシャはヨアシュに向かって怒り、こう言いました。「あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。」と。「勝利」と訳された名詞のへブル語は「テシューアー」תִּשׁוּעַהで「救い」とも訳せます。敵を絶ち滅ぼすことのできる主の勝利の矢を放つように求められたヨアシュは三度だけで矢を射ることを止めてしまいました。なぜこのとき「神の人」が怒ったのかといえば、それは敵を打ち滅ぼすということにおいて徹底性に欠けていたからです。また、放つ矢が「主の勝利の矢」であることへの信頼性が欠けていたからです。
  • この箇所での「矢」は「主の勝利の矢」を意味し、その矢を射ることで敵を完全に打ち滅ぼすことのできる「矢」でした。この「矢」が意味しているのは、神のみことばです。あるいは、神のみおしえ(トーラー)のことです。エリシャがヨアシュに「矢を取りなさい」と命じたその「矢」(「ヘーツ」חֵץ)はここで使われているのは複数形の(冠詞付で)「ハヒツィーム」הַחִצִים)です。それを「取る」という動詞は「ラーカハ」לָקַחです。この「ラーカハ」の名詞は「レカハ」で、「教え、理解」を意味します。その「教え」と「理解」は、当然のことながら、神の御言葉の「教え」であり、またその「理解」や「悟り」です。
  • 「矢を放つ、矢を射る」のヘブル語は「ヤーラー」יָרָהですが、この動詞は「教える」という意味も持っています。そしてそれが名詞になると、「トーラー」תּוֹרָהとなるのです。つまり、ここで意味する預言的行為は、「矢を取る」ことも、「矢を射る」ことも、すべては神のトーラー(律法、神の教え)によって生きることを意味しています。「矢を取り」「矢を射る」とは、「神の律法」に従って歩むことではじめて敵に打ち勝つことが出来ることを意味しています。それゆえヨアシュが、敵に対して三度で矢を射ることを止めてしまったその不徹底さに神の人エリシャは怒ったのです。
  • 神の民に神が与えた「教え」(トーラー、律法)に生きることがなければ、それは無用の民となります。烏合の衆となってしまいます。その結果、神のみこころをこの世に示すという使命を果たすことは到底できません。エリシャの地上での最後の働きは、イスラエルの王に対して、象徴的な行為を通して、神のみことばに立ち返るべきことを教えたのです。

(2) 「主のしもべの歌」にある「とぎすました矢」(イザヤ49:2)

  • イザヤ書には四つの「主のしもべの歌」(42:1~4/49:1~6/50:4~9/52:13~53:12)があります。「主のしもべ」は新約の光から解釈するとき、それは神のしもべとしてこの世に受肉されたイェシュアを啓示しています。四つの歌の中の第二の歌は、主のしもべが発言しています。その中にこうあります。

【新改訳改訂第3版】イザヤ49章2節

主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、
私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した。

  • 49章2節はヘブル語特有のパラレリズム(同義的並行法)が用いられており、「主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し」ということと、「(主は)私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した」ということは同義です。とすれば、「剣」も「矢」も同義ということになります。これは「みことば」の比喩です。使徒パウロは悪魔の策略に対して、「御霊の与える剣である神のことばを受け取りなさい」と述べています(エペソ6:17)。エペソ6:16では「悪い者が放つ火矢」という表現がありますが、敵を打ち破る神の「矢」もあるのです。詩篇64篇7節には「しかし、神は矢を彼ら(悪者)に居掛けられるので、彼らは不意に傷つく。」とあります。
  • イザヤ書49章2節のしもべの歌の中にある「とぎすました矢」とは、神のみこころの中心を射る矢と言えます。主のしもべは、預言者としての務めを果たすための口から出る鋭い剣を持ち、神のみこころの中心を成し遂げていくための矢となるために、時が来る時まで神は隠し、神のうちにとどまらせたのです。語る前に、与える前に、しっかりと自分のものとして学び、備えられる必要があるのです。神はそのようにしてご自身の「しもべ」に対して十分な備えを与えられる方です。これが「矢筒の中に隠した」という真の意味だと信じます。
  • ちなみに、「御手の陰に私を隠し」の「隠し」は「ハーヴァー」(חָבָא)のヒフィル態。「矢筒の中に私を隠した」の「隠した」は「サータル」(סָתַר)のヒフィル態です。いずれも、神との親密なかかわりにおける重要な語彙です。
  • その意味において、御子イェシュアは公生涯に入るまでの30年という期間を御父のうちに過ごされ、公生涯に入られたあとも、御父のうちにとどまり続けました。その御子が弟子たちに「わたしが御父にとどまっているように、あなたがたもわたしにとどまりなさい」と言われました。なぜなら、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないから」です(ヨハネの福音書15:5)。「とどまる」とは「隠遁の召し」を生きることです。御子イェシュアのように、鋭い矢となるために、「御手の陰に私を隠される」秘儀、「矢筒の中に隠される」秘義を身に着けたいと思います。

2013.1.8


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