「私の愛する方」
雅歌は、花婿なるキリストと花嫁なる教会のかかわりを学ぶ最高のテキストです。
6. 「私の愛する方」
【聖書箇所】 1章12〜14節、16〜17節
ベレーシート
- 花嫁の花婿に対する呼びかけは、「私の愛する方」です(1:13, 14, 16/2:3, 9, 10, 16, 17/4:16/5:4, 5, 8, 10, 16/6:2, 3/7:10, 11, 13/8:14)。花婿が花嫁に呼びかける「わが愛する者」(「ラヤーティー」(רַעְיָתִי)の9回と、花嫁が花婿に呼びかける「私の愛する方」(「ドーディー」דּוֹדִי)の20回、および「私の愛している人」(「シェアーハヴァー・ナフェシュ」
שֶׁאָהֲבָה נַפְשִׁי)の5回の使用頻度を見ても分かるように、圧倒的にこの雅歌は花嫁が花婿を慕っていることが分かります。今日のキリスト教会が「ブライダル・パラダイム」を構築(シフト)する上で、雅歌の学びは不可欠であり、将来に向かっての大きな示唆を与えてくれると信じます。
- 雅歌における花婿と花嫁のかかわりは、言葉だけでなく、双方の香ばしい香りによってもその存在を確かめ合っているのです。雅歌にはさまざまな香料が登場します。
1. 花嫁の香りは「ナルド」の香り
【新改訳改訂第3版】雅歌 1章12~14、16~17節
12 王がうたげの座に着いておられる間、私のナルドはかおりを放ちました。
13 私の愛する方は、私にとっては、この乳房の間に宿る没薬の袋のようです。
14 私の愛する方は、私にとっては、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花ぶさのようです。16 私の愛する方。あなたはなんと美しく、慕わしい方でしょう。私たちの長いいすは青々としています。
17 私たちの家の梁は杉の木、そのたるきは糸杉です。
- オリエンタルの世界では、香水、香油がとても大切にされるようです。日本でも室町時代より続く「香道」の世界があるようで、単に嗅ぐのとは異なり、「聞香」(もんこう)と言って、文字どおり、心を傾けて香りを聞く、心の中でその香りをゆっくり味わうということらしいです。私が習っていたピアノの先生がそうした世界に触れていたようですが、詳しい事を聞いたことがありませんでした。
- ヘブルの世界では、名がその人を表わすように、その人の香りがその人を表わすということなのでしょうか。花嫁の香りは「ナルド(「ネールデ」נֵרְדְּ)」の香りのようです。
- ナルドの純粋で高価な香油をイェシュアの頭から惜しみなく注いだマリアがいました(マルコ14:3/ヨハネ12:3)。十字架への道を歩む壮絶な苦しみの中で、イェシュアが語られたことをただひとり悟った女性がマリアでした。マリアの注いだナルドの香りは、苦しみの道を歩むイェシュアの身体から決して離れることはなかったはずです。そのナルドの香りは、イェシュアに対するマリアの最上の愛をあかしする香りだったのです。
- 13節の「私の愛する方は、私にとっては、この乳房の間に宿る没薬の袋のようです。」とあるのは、まさに預言的です。当時の女性は首から小さな香り袋を下げていたようです。
- また、14節では「私の愛する方は、私にとっては、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花ぶさのようです。」とあります。「ヘンナ樹の花ぶさ」から採れる香りを、別名「ヘンナ」と言うようです。
- 雅歌4章にもさまざまな香料が登場します。いずれも最高のもののようですが、花婿の花嫁をたたえることばがすごいのです。「あなたの香油のかおりは、すべての香料にもまさっている。」(4:10)と。
2. 「キリストを知る知識の香り」
- 「あなたの香油のかおりは、すべての香料にもまさっている。」とは、花嫁に対する花婿の絶賛です。そんなかおりが教会にあることを、また個々のクリスチャンにもあることを使徒パウロは以下のように語っています。
【新改訳改訂第3版】Ⅱコリント書2章14~17節
14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
16 ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。
17 私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。
●「神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」ということを信じなければなりません。しかし、かと言って、私たちがキリストの香りを放ったからと言って、誰にでも喜ばれるとは限りません。その香りをもろに嫌って拒絶する人もいるでしょうし、全く問題としない人もいるのです。しかしそうであっても、教会(私たち)は、キリストの香りを放つことをやめてはいけないのです。その香りを受け入れる人が起こされるかもしれないのです。
●ただし、決して人に媚びてはいけないのです。重要なことは2章17節にあります。そこには、二つのことが語られています。
第一は、 「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず」です。
第二は、常に、 「真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語る」ことです。なぜなら花嫁なる教会の放つ香りが、常に「いのちから出ていのちに至らせるかおり」となるためです。そのためには、いつも、真心から、真摯に、みことばを通して神のご計画である「御国の福音」を余すところなく語らなければならないのです。耳障りの良い話ではありません。人々が経験したあかしの方が耳障りの良い話として好まれるでしょう。しかしそれだけでは、イェシュアの語った「御国の福音」を知ることはできないのです。
- 結論を言うならば、花嫁のかおりとは、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語ることなのです。
2015.8.8
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