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花婿と花嫁の向き合い(呼応)

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雅歌は、花婿なるキリストと花嫁なる教会のかかわりを学ぶ最高のテキストです。

7. 花婿と花嫁の向き合い(呼応)

【聖書箇所】 2章1〜3節

ベレーシート

  • 雅歌は花婿と花嫁のかかわりが描かれていますが、それが呼応している描写に注目する必要があります。
  • フランシスコ会訳は「花婿」と「花嫁」が語るそれぞれの部分が台本のように明記されているので最も分かりやすいです(ただし、原文にはその明記はありません)。あくまでも便宜上そうしているのです。新共同訳もそれに準じる形でそれぞれの部分を明記していますが、フランシスコ会訳と同じではありません。バルバロ訳は少々大雑把です。新改訳はそれぞれの部分を一行空けることでそれを表わそうとしています。岩波訳に至っては小見出しをつけていますが、どこが花婿で、どこが花嫁の語っている部分かを全く明記していません。
  • 花嫁と花婿の語りの部分を最もふさわしく明記しているのはフランシスコ会訳だと思います。ただし、この訳の解釈は比喩的解釈ではなく、文字通りに解釈する「自然的解釈」に立っています。

  • 私の立場は、神のご計画の目的という聖書の鳥瞰的な視点から、また、ヘブル的視点から、「御国の福音」の視点からの解釈を試みようとしています。なぜなら、花婿と花嫁の比喩は、キリストと教会の愛のかかわりの奥義であると使徒パウロは理解したからです。旧約の中にありながら、やがて啓示される花婿なるキリストと花嫁なる教会の奥義です。その向き合い方を、今回は雅歌2章1~3節で見てみたいと思います。

1. 「花」という語彙を中心として

(1) 花嫁のことば

【新改訳改訂第3版】雅歌2章1節

私はシャロンのサフラン、谷のゆりの花。


「私はシャロンのサフラン、(私は)谷のゆりの花。」これはヘブル語特有のパラレリズムです。つまり、ここで花嫁は自分を春先に咲く花にたとえているのです。「シャロン」はイスラエルの西海岸の平野を意味します。

「サフラン」(新改訳)と訳された花の原語は「ハヴァッツェレット」(חֲבַצֶּלֶת)で、新共同訳は「ばら」、岩波訳は「百合」、フランシスコ会訳・バルバロ訳は「水仙(すいせん)」とそれぞれ訳しています。

アネモネ.JPG

後半の「ゆり」(新改訳・新共同訳・フランシスコ会訳・バルバロ訳)と訳された原語は「シューシャン」(שׁוּשַׁן)です。おそらくこれは「アネモネ」という赤い花のことを示唆しています。「谷」と訳された「ハアマーキーム」(הַעֲמָקִים)は谷間であっても比較的広々とした平野を意味します。

ハヴァッツェレット」(חֲבַצֶּלֱת)にしても、「シューシャン」(שׁוּשַן)にしても、春先に咲く花として、花嫁の愛の初々しさを表している表現と言えます。たとえその花がどこに咲いていようとも、花婿はそれを決して見逃さないということが重要なのです。2節はそのことを示しています。ちなみに、イェシュアが「野のゆり」のことを話したことがありますが(マタイ6:8)、その「野のゆり」もヘブル語では「シューシャン」(שׁוּשַׁן)の複数形です。「ゆり」は神に選ばれた者の象徴なのです。


(2) 花婿のことば

【新改訳改訂第3版】雅歌2章2節

わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。


●ここでも、「いばらの中にあるゆりの花」と「娘たちの中にいるわが愛する者」は同義(パラレリズム)なのです。

●「わが愛する者」(これは花婿が花嫁を呼ぶ呼び方)が、たとえ多くの娘たちの中に存在していたとしても、花婿はその存在をいち早く見つけることができるだけでなく、「わが愛する者」がひときわ目立つ存在として目に映っていることがここでは重要なのです。そのことを「いばらの中のゆりの花のようだ」と描写しているのです。1節と2節をつないでいるのは「花」なのです。


2. 「りんごの木」という語彙を中心として

  • 2節では、花婿が花嫁の存在をいばらの中にある「ゆりの花」として注目しましたが、3節では反対に、花嫁が花婿の存在を林の木々の中にある「りんごの木」として見ています。

【新改訳改訂第3版】雅歌2章3節
私の愛する方が若者たちの間におられるのは、
林の木の中のりんごの木のようです。
私はその陰にすわりたいと切に望みました。
その実は私の口に甘いのです。


●3節の前半で、「私の愛する方」(花婿に対する呼び名)が、若者たちの間にいることを、林(森)の中に植わっている「りんごの木」のようだと描写しています。「りんごの木」と訳されたヘブル語は「タップーアッハ」(תַּפּוּחַ)で(2:3、8:5)、その複数形が2章5節、7章8節で使われています。

●「りんご」「りんごの木」は、私たちがイメージするappleではありません。聖書に登場する果物は「イチジク、ブドウ、オリーブ、ザクロ」などです。ですから「りんごの木」と訳されたヘブル語の「タップーアッハ」(תַּפּוּחַ)は、実際どのような種類の木であったのか、断言することは難しいようです。果実の「総称名」として使われている可能性があります。

●いずれにしても、それは太陽の熱をさえぎる影を作っているのです。花嫁はその木を慕ってその木の「陰にすわる」ことを切に望み、その木の実は私の口に甘いと表現することで、花嫁にとっての喜びを表しているのです。「りんごの木」に象徴される花婿の陰(=「ツェール」צֵל)に座わる(住む)ということは、花婿の保護のもとに身を寄せることであり、また「その木の実は私の口に甘い」という感覚はとても光栄に満ちた祝福であり、自分を「力づけ」てくれることの象徴的表現でもあります。

●詩篇91篇1節に「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る」とあります。そこにある「隠れ場」(「セーテル」סֵתֱר)と「陰」(「ツェール」צֵל)は同義です。そこには確かな信頼と安心の保障があります。


  • 花婿なるキリストと花嫁なる教会がそのようなかかわりを深め、味わうことが重要です。

最近私は、YouTubeで、「360年間解けなかった数学の難問を解いた超天才」の動画を見ました。彼は10歳の時にその難問を知り、それを解くことが自分の生涯の仕事だと直感しました。やがてそれに挑戦しようとしますが、勤めていた大学の教授からストップがかかります。なぜなら危険な賭けだからです。しかし、あることから再度チャレンジします。彼はその難問を解くために一人屋根裏部屋にこもりました。そして七年経って突然、答えが与えられたと言います。他にも、数学の難問を解くために結婚もせず、世俗から離れて一つのことに集中したことで、誰も解くことができなかった答えを見つけ出した天才たちがいることを知りました。そんな動画を見ながら、今日、神の隠された秘密を解くことのできる者はだれなのか。それはキリストの花嫁でしかないと悟りました。

向き合う関係.JPG
  • 花婿の象徴であるりんごの木の陰に座ることを切に望む花嫁、その花嫁こそ、その木の実が口に甘いことを知るのです。神が「人がひとりでいるのは良くない」と言って、神は人に「ふさわしい助け手」を与えました。人の「ふさわしい助け手」とは、「彼と向き合ったふさわしい助け手」(עֵזֶר כְּנֶגְדּוֹ「エーゼル・ケネグドー」)の存在です。「彼と向き合った者」とは名詞「ネゲド」(נֶגֶד)ですが、その動詞「ナーガド」(נָגַד)は「解き明かす、示す、告げる」ことを意味します。そのような特権にあずかっているのは、まさに「キリストの花嫁」の他にはおりません。そのことをキリストの花嫁は自ら悟り、「御国の福音」の秘密を解き明かすためにますます花婿を尋ね求める必要があるのです。それが旧約聖書の言う「愛」(「アハヴァー」אַהֲבָה)が意味することなのです。


2015.8.14


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