****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「青銅の蛇」


「青銅の蛇」について

A. 旧約

【新改訳2017】民数記21章4~9節
4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回しようとして、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中で我慢ができなくなり、
5 神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」
6 そこで【主】は民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。
7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは【主】とあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう【主】に祈ってください。」モーセは民のために祈った。
8 すると【主】はモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」
9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた

●民数記21章は荒野の放浪の全期間がまとめられている章で、いわば情報満載といえる章です。その中で最も重要な出来事は「荒野で上げられた青銅のへび」です。4節~9節には、イスラエルの民がホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海(紅海)の道に旅立ったとき、民たちは途中でガマンできなくなり、神とモーセに逆らって言ったことばは次のことばでした。「われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」

●イスラエルの民たちがエドムを迂回して荒野を旅するその道は困難をきわめたのかもしれません。迂回する道の総距離はかなりのものでした。「がまんできなくなった」とき、いろいろな心の思いが一挙に噴き出してしまうことは人間の常です。イスラエルの民はこのとき「パンもなく、水もなく、私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」と言ったのです。ちなみに、「飽き飽きした」(קוּץ)と訳された原文は「ナフシェーヌー・カーツァー」(נַפְשֵׁנוּ קָצָה) で「私たちのネフェシュは~に飽き飽きした(「嫌になった」)」という意味です(完了形)。「このみじめな食物」とは、神がご自分の民に与えた「マーン」(LXX訳では「マンナ」、日本語訳では「マナ」)のことですが、彼らは「飽き飽きした」と神とモーセに言ったのです。この「マーン」(מָן)は約束の地に入ってからは食べることはありませんでしたが、荒野の食物として神が与えた恵みの食物でした。出エジプト記16章31節では「蜂蜜を塗ったうすい煎餅のような味」とあり、民数記11章9節では「油をたっぷりと含んだクリームのような味」と記されています。それを「みじめな食物」(新改訳、岩波訳)、「粗悪な食物」(口語訳)、「あんな軽い食べ物」(バルバロ訳)と言ったのです。サタンは人々のネフェシュ(欲望)に働きかけて、神に敵対させる存在です。

●これに対する神の反応はまことに厳しいものでした(6節)。

「そこで主は民の中に燃える蛇(הַנְּחָשִׁים הַשְּׂרָפִים)を送られた(שָׁלַח)」(新改訳)
「そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。」(口語訳)
「そこで主は、炎の蛇を民の中に送られた。」(新共同訳)
「そこで主は人を焼くへびを民に送り込まれた。」(バルバロ訳)
「そこでヤハウェは、民に対してサーラーフの蛇を送った。」(岩波訳)

●蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだことが記されています。「燃える」「焼く」と訳された「サーラーフ」(שָׂרָף)は毒による熱いような痛みを表します。火のような痛みを与える毒をもった蛇(つまり「まむし」のこと)に多くの人々が噛まれて死にました。LXX訳は「死をもたらす蛇-deadly serpents」と訳しています。これが彼らの呟きに対する神の刑罰でした。

●食べ物に対するイスラエルの民のつぶやきに対して、神がそれほどに怒られたのには理由があります。「マナ」はやがて神から与えられる「天からのマナ」の予型です。「天からのマナ」は神の口から出るすべてのことばとも言えますし、またその言葉を語るために来られた神の御子ご自身とも言えます。もし、私たちが神の語られることばに対して、粗悪で飽き飽きしたものだとつぶやくならば、それは霊的ないのち取りになりかねません。尽きることのない霊的源泉、私たちの魂を満ち足らせる良いものとして感謝して受け取り、その豊かな味わいを味わうことがなければ、霊的飢饉を自ら招き、魂に痛みをもたらすというということを、この出来事は警告しているように思います。

●神の刑罰による痛みを経験した者たちは、自らの罪を認め、救いを求めました。彼らはモーセのところに来て、「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」と願いました。罪による痛みの経験は再び神に近づくことのできるしるしです。痛みを伴わない救いは真の救いとはならないからです。だれでも罪を犯し、失敗をします。しかし自分の罪を認めることは痛みを伴いますが、神に立ち返る機会となるのです。イスラエルの民がこのとき経験した痛みは相当なものでした。それは彼らが同じ罪を犯す事のないための神の恵みと言えます。

●モーセが彼らのために祈ると、主は救済の手段をモーセに教えました。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」(8節)。「それを仰ぎ見れば、生きる」、これが神の救済方法なのです。この出来事が、新約のヨハネの福音書3章14節に出てきます。

B. 新約(神の救いの手段としての青銅の蛇)

蛇.PNG

【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書3章14~16節
14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

●モーセが人々の救いのために、青銅で燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけたように、人の子もまた上げられなければなりません。その理由は、「信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」と語っています。さばきをもたらした蛇が人々に救いをもたらしたように、人々の罪の身代わりとして神の呪いを受けた御子イエスは、同時に、私たちを救う者となるのです。この方を「仰ぎ見る」(「ラーアー」רָאָה)とは、十字架の上に上げられた人の子を「信じる」ということです。

●「燃える蛇」はこのように神の怒りと同時に、神の愛のしるしである十字架のキリストの模型であったのです。ちなみに、「蛇」の「ナーハーシュ」(נָחָשׁ)のゲマトリアは358です。「メシア」(מָשִׁיחַ)のゲマトリアも358で同じです。これは呪いを救いに変えた神の贖罪を啓示しています。

●民数記21章10節以降には、青銅の蛇を仰ぎ見て生きた者たちが、北へと進軍して行く輝かしい記録が記されています。彼らは川のほとりに宿営し、また井戸のあるところを進みました。そして、イスラエルの民は「わきいでよ。井戸。」と歌いました。さらに、エモリ(アモリ)人の王シホンとバシャンの王オグとの戦いに勝利し、その地を占領したのです。約束の地に向かっていく新しい世代の者たちが少しずつ整えられていくのを見ることができます。これは彼らが旗ざおに上げられた青銅の蛇を仰ぎ見て、生きたことのあかしと言えます。

2020.7.15
a:2293 t:3 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional