****** 詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。******

「静まりなさい」「祝福とのろい」

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16. 「静まりなさい」、「祝福とのろいの宣言」

聖書箇所 27:1~26

はじめに

  • 指定された段落(申命記27章)から、二つのキーワードを瞑想のテーマとして選びました。一つは9節後半にある「静まりなさい」ということばが意図していること、もう一つは11節以降にある「祝福とのろいの宣言」についての箇所の瞑想です。

1. 「静まりなさい」という命令が意味するもの

  • 私たちが週の初めに、共に集って主にある者たちと共に礼拝します。普通の礼拝の式順では、最初に、「前奏黙祷」というのがあります。わずか5分程度の時間ですが、主の前に静まって、心を整える準備の時だと私たちは考えています。しかし私はそう思いません。主への礼拝はある決まった時間にささげればよいということではなく、私たちのライフスタイルそのものです。私たちの生活のどこを切っても、そこに主への礼拝が流れているべきです。
  • 申命記27章9節に「静まりなさい。イスラエルよ。聞きなさい。きょう、あなたは、あなたの神、主の民となった。」ということばがあります。申命記の有名なことばは、「シェマ・イスラエル」(聞きなさい。イスラエルよ。)です。しかし、ここでは、「静まりなさい。イスラエルよ。」とあります。「静まりなさい」(keep silent)と訳された「ハスケート」(הַסְכֵּת)は、動詞「サーハト」(סָכַת)で旧約聖書の中ではここ(27:9)にしか使われていないとても珍しい動詞です。
  • 1回しか使われていないとはいえ、生ける神の御前に「静まること」の大切さを強調する言葉です。ここでの「静まりなさい」とは、自分が神の民とされた事実を心の中にしみじみと自覚しながら、常に(どんなささいなことの中にも連続して)、神の恵みの中に生かされていることを、日々新しく悟ることを意味します。この流れのなかにある「前奏黙祷」なのです。わずか5分間程度で済ませられるような「静まり」ではありません。日々の「静まり」の中に、瞑想の生活の流れの中に礼拝が置かれていることを意味しているのです。「さあ、これから、現世を離れて神に心を向けるぞ」という霊的なカーテンとしての「前奏黙祷」ではないのです。日々の「静まり」の連続の中に、共なる礼拝が設けられていると理解すべきです。「共なる礼拝」とは、ひとつの群れとして、神の御前に静まるときを過ごす時なのです。
  • そうした共同体としての静まりとしての礼拝の中で、神を賛美し、みことばを通して神の声を聞き、神に感謝をささげ、礼拝式の最後には、三位一体の神-父、御子、御霊―をたたえる「頌栄」を歌い、その後で、祝祷がなされます。祝祷は、御父と御子と御霊の三位一体なる神の交わりの祝福がひとりひとりの上にあるようにという祈りです。そして、再び「静まりの生活」に戻って行くのです。つまり、日々の瞑想に支えられた礼拝が目指されているように思います。
  • ウィークデイも、主日礼拝も、そこにはいつも「静まり」が求められています。「静まりなさい。イスラエルよ。」、「きょう」という日―いつも、毎日をー自分が神の民とされていることを思い巡らしながら過ごすことが求められているのです。

2. なにゆえに「祝福の宣言」が沈黙し、「のろいの宣言」だけがあるのか

ゲリジム山エバル山
祝福の宣言のろいの宣言
ルベン、ガド、アシュル、ゼブルン、ダン、ナフタリ シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミン
  • 申命記11:29に「あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主があなたを導き入れたなら、あなたはゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを置かなければならない。」とあります。これはモーセがイスラエルの民に命じられたものであり、それが実行されたことがヨシュア記8章30~35節に記されています。エバル山に主のために一つの祭壇を築き、その上で、主に全焼と和解のいけにえをささげました。また、そのエバル山にはモーセの律法の写しを白いしっくい(石灰)を塗られた石の上に書きました。これらのことは、みな主のしもべモーセがイスラエルの人々に命じたことでした。
  • ここでは申命記27章、28章に記されている「祝福とのろいについての警告」を瞑想をしてみたいと思います。
  • モーセは12部族を二つのグループに分けて、6部族(シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミン)には、民を祝福する宣言をするためにゲリジム山に立つことを命じ、もう一方の6つの部族(ルベン、ガド、アシュル、ゼブルン、ダン、ナフタリ、)には、民をのろう宣言をするためにエバル山に立つことを命じました。しかし、実際には、「祝福の宣言」はひとつもなく、全会衆によって「アーメン」と応答される12の「のろいの宣言」があるだけです。
  • レビ人に導かれてなす「呪いの宣言」の定式は、「・・する者はのろわれる。」民はみな、答えて、アーメンと言いなさい。です。その内容は、「主の忌みきらわれる彫像や鋳造を造り、これをひそかに安置する者はのろわれる。」に始まり、「自分の父や母を侮辱する者はのろわれる」こと、「隣人の地境を移す者はのろわれる」こと、「盲人にまちがった道を教える者はのろわれる」こと、「在留異国人、みなしご、やもめの権利を侵す者はのろわれる」こと・・・・と続き、最後は「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」で終わる12の宣言です。
  • 「・・する者は祝福される」という宣言はひとつもなく、すべて「・・する者はのろわれる」という宣言内容となっています。このことはいったい何を意味しているのでしょうか。なぜ、「祝福の宣言」がひとつもないのでしょうか。それに対する答えは、新約の光が必要です。
  • 使徒パウロは、ガラテヤ人への手紙の中で、信仰による人々は祝福を受けるが、それに対して、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあることを教えるために、申命記27章26節を引用し、「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(ガラテヤ3:10)と書いています。つまり、律法を行なうことによってはだれひとり祝福されないということが、「祝福の宣言」が申命記27章で全く沈黙している理由なのです。律法を守ろうという土台に立つすべての者には、のろいのほか何もないことを預言的に教えようとしているのです。「祝福の宣言」がしるされていないことの中に、神の重要なメッセージが隠されていると言えます。
  • 使徒パウロは律法の役割についてもこう述べています。
    「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」(ガラテヤ3:24)。「祝福の宣言」は、やがて、来られるイエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々にはじめて与えられるからです。


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