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イスラエルに対する主の叱責 (2)

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4. イスラエルに対する主の叱責とさばき (2)

【聖書箇所】アモス書4章1~13節

ベレーシート

  • アモス書の3~5章はひとつのまとまりを持っています。訳文では分かりませんが、原文を見ると明瞭に分かります。というのは、各章の冒頭がそれぞれ「聞け」(「シムウー」שִׁמְעוּ)という命令で始まっているからです。
  • アモス書には特徴的な修辞法が見られますが、そのひとつにリフレイン(反復句)があります。1章と2章に見られた「〇〇の犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。」というリフレイン。今回は4章にある五つのリフレインのフレーズ「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。」に注目したいと思います。その前に、サマリヤの上流階級の貴婦人たちの悪行、およびベテルとギルガルでの偶像礼拝に対する主の叱責を取り上げます。

1. イスラエルに対する主の叱責とさばき

(1) サマリヤの山にいるバシャンの雌牛どもに対して

  • 1節にサマリヤに対する主の叱責が語られています。

    【新改訳改訂第3版】アモス書4章1~3節
    1 聞け。このことばを。サマリヤの山にいるバシャンの雌牛ども。彼女らは弱い者たちをしいたげ、貧しい者たちを迫害し、自分の主人たちに、「何か持って来て、飲ませよ」と言う。

  • 「サマリヤの山にいるバシャンの雌牛ども」とは、サマリヤにいる有力者たちの夫人たちです。「バシャン」(「バーシャーン」בָּשָׁן)とは、かつてモーセが打ち破ったレファイム(パレスチナの先住民で巨人)の生き残りであったオグの王国の領土でした。モーセはその地をマナセ族の領土としました。その地は肥沃な地であり、強い雄牛、雄羊、雄やぎなどを育成していたことで知られていました。アモスは首都サマリヤにいる上流階級の夫人たちを「バシャンの雌牛ども」にたとえ、彼女たちの貪欲さ、残忍さを叱責しています。彼女たちは「弱い者たちをしいたげ(圧迫する)、貧しい者たちを迫害し(押しつぶす、飲み込む)、自分の主人である夫たちに贅沢な宴会を開くように要求していたのです。
  • モーセの契約には「福祉理念」が明記されています。特に、その福祉理念の責任の実際的行使は女性の務めでした。しかしその女性たちが律法の理念から外れ、自分たちの楽しみや欲に溺れて、貧しく、力のない者たちを踏みつけていたのです。こうした現実に対する主の報いは厳しいものでした。

    【新改訳改訂第3版】アモス書4章2~3節
    2 神である主は、ご自分の聖にかけて誓われた。見よ。その日があなたがたの上にやって来る。その日、彼らはあなたがたを釣り針にかけ、あなたがたを最後のひとりまで、もりにかけて引いて行く。
    3 あなたがたはみな、城壁の破れ口からまっすぐ出て行き、ハルモンは投げ出される。──【主】の御告げ──

  • その日」とは、ここでは主のさばきがもたらされる日の意味です。「その日」が必ず彼女たちの上にやって来るという預言です。「彼ら」とは、やがて明らかになるアッシリヤの軍勢です。主は彼らを用いて北イスラエルの民を「釣り針にかけ」、「もりにかけ」て「引いて行く」とあります。いわば数珠つなぎにして、捕虜として連行する姿を意味しています。繁栄を誇っていた北イスラエルがそのような惨状に変えられようとは、だれも考えなかったに違いありません。
  • 「あなたがたはみな、城壁の破れ口からまっすぐ出て行き、ハルモンは投げ出される」(3節)とあるように、アモスは北イスラエルに対して、神から与えられた地からアッシリヤによって捕らえ移されることを語った最初の預言者となりました。
  • 「投げ出される」と訳されたヘブル語は「シャーラフ」(שָׁלַךְ)の使役態です。約束の地から「追いやられ」「放り出される」ことを意味します。ちなみに、関根氏は3節を「あなた方はおのおの裸で引き出され、肥溜に投げ捨てられる」と訳しています。つまり「ハルモン」を地名(多くは「ヘルモン山」と解釈しています)ではなく、「肥溜」と訳しているのです。どうしてそのような訳になるのかは、謎(?)です。

(2) ベテルとギルガルでの偶像礼拝に対して

  • アモス書4章4~5節にある主の叱責を見てみましょう。

    【新改訳改訂第3版】アモス書4章4~5節
    4 ベテルへ行って、そむけ。ギルガルへ行って、ますますそむけ。朝ごとにいけにえをささげ、三日ごとに十分の一のささげ物をささげよ。
    5 感謝のささげ物として、種を入れたパンを焼き、進んでささげるささげ物を布告し、ふれ知らせよ。イスラエルの子ら。あなたがたはそうすることを好んでいる。──神である主の御告げ──

  • ここで「べテル」と「ギルガル」の地名があります。前者の「ベテル」は北イスラエルにおける聖所のあるところでしたが、そこは偶像礼拝の中心地でした。おそらく、「ベテル」と並行して「ギルガル」の地名が出ているのは、そこでも偶像礼拝がなされていたことを示唆しています。「ギルガル」はかつてヨシュアが率いるイスラエルの民のカナン侵入後の最初の拠点でした。最初の王となったサウルはそこで王権を授与されましたが、そこでサウルは勝手にいけにえをささげるという重大な罪を犯して、王位から退けられたのもギルガルにおいてでした。その意味において「ギルガル」は自分勝手な礼拝をささげた場所の象徴と言えます。
  • 「ベテル」と「ギルガル」での偶像礼拝は、「朝ごとに」「三日ごとに」いけにえをささげるというとても忙しい、かつ熱心なものでした。しかしそれは「主のための、主に対する」礼拝ではなく、原文では「あなたがたのいけにえ、あなたがたの十分の一のささげもの」となっています。口語訳だけがその部分を正確に訳しています。しかも、「イスラエルの子ら。あなたがたはそうすることを好んでいる。」とアモスは語っています。いわばアモスは、彼らの自己中心的な礼拝を皮肉っているのです。

2. 5回のリフレイン

  • アモス書4章6節以降には、以下のように、5回のリフレイン(反復句)があります。

【新改訳改訂第3版】アモス書4章6, 8, 9, 10, 11節
それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。

  • 「わたしのもとに」と訳されている語彙は「アディー」(עַדִי)です。これはヨエル書のところでも触れましたが、「わたしに」という方向性を示す場合には、通常「エーライ」(אֵלַי)という語彙を使用しますが、アモス書4章のリフレインにある「わたしのもとに」は「アディ」(עַדִי)という語彙が使われています。つまり、単に神に立ち帰るだけでなく、神のふところに届くような、そして、そこにとどまり続けることを要求する表現です。
  • 「それでも」とは、イスラエルの民たちが神に立ち帰る契機として、①すべての地での「飢饉」(6節)、②一部の地域での「旱魃(かんばつ)」(7節)、③「害虫による黒穂病」と「いなごによる被害」(9節)、④「疫病と剣」(10節)、⑤「火による災害」(11節)がもたらされたにもかかわらず、それを神への立ち帰りのチャンスとはしなかった彼らを叱責しています。
  • 人間は自然の災害に遭ってもそれを神に立ち帰る機会とはせずに、逆に、「神が愛であるなら、なぜこんなことが起こるか」と。「神を許せない」思いが先行して、むしろ神に敵対する者となってしまうことが往々にしてあります。北イスラエルの民はその模範となってしまいました。「それゆえ」に・・です。

3. あなたは神に会う備えをせよ

【新改訳改訂第3版】アモス書 4章12節
それゆえ、イスラエルよ、わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。

  • ところで、この12節のみことばをどのように理解すれば良いのでしょうか。まずは、それゆえ、主は「こうしよう」「このことをする」とはいったい何を意味しているのでしょうか。もう立ち帰るチャンスはなくなった、終わりだ、覚悟しろ!!」という意味なのでしょうか。それとも、もっと隠された意味があるのでしょうか。
  • 実は、このみことばは二つに解釈できます。一つは、主がさまざまなな災いを通して立ち帰りのチャンスを与えたにもかかわらず、主のもとに帰ることをしなかった。そのために、主の「さばき」は免れないとする解釈で、そのために「備えよ」という理解です。しかもう一つの解釈もできます。それはすでに彼らの力によって主のもとに立ち帰るとは不可能となったのであるから、やがて「わたしが彼らを立ち帰るようにさせる」という憐れみをもたらす意味で、神に会う備えをしていなさいという理解です。
  • 4章13節は、主が「風を造り出される」方、「人にその思いがなんであるかを告げられる」方としてたたえられています。「風」は「ルーアッハ」(רוּחַ)で、「霊」という意味が含まれています。つまり、人が神に立ち帰るためには神の霊「ルーアッハ」が不可欠なのです。このことにおいて人ができることは、神を信じる以外には何もありません。神の訪れの時を、ただ信じるだけです。使徒パウロは次のような祈りをするように記しています。

【新改訳改訂第3版】エペソ人への手紙1章17~19節
17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように
18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。


  • 以上、「神に会う備えをする」とは、いずれの解釈も可能だという「含み」をもって理解しておきたいと思います。



2015.2.9


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