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エリファズに対するヨブの反論(1)

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6. エリファズに対するヨブの反論(1)

【聖書箇所】6章1節~7章21節

ベレーシート

  • ヨブの三人の友人の中でおそらく長老格のエリファズが語った苦難の原因と目的は正論です。しかしその正論はヨブの苦悩の叫びをいくらかでもいやすものではありませんでした。むしろ、逆に、ヨブを失望させてしまったのです。
  • ヨブ記の難しさは、エリファズの語った一筋縄ではいかないものがあります。なぜなら、ヨブは神が評価したように「完全であり、潔白だった」という前提があるからです。常識的には、多くの人にとって、自分の内には罪深い、汚れた思いがあることを少なからず自覚しているからです。この世のすべての苦悩は自分のうちにある罪(仏教的には煩悩というのでしょうか)が問題となっていると言われて、本当にそのとおりと思える人は素直な人と言えるでしょう。ところが、ヨブ記の設定は文字通り、「完全で、潔白な者」が苦しみにあっているところにあります。エリファズの神学の中に当てはまらないところにあります。
  • エリファズに対するヨブの反論に耳を傾けたいと思いますが、その反論を理解する上で、6章2~7節の記されている比喩的表現の意味を理解することが重要です。

1. ヨブにとっての「腐った食物」とは(6章)

  • 6章2~7節では、ヨブが3章において、なぜ自分がうめきの(つぶやきの)声を上げてしまったか、その真意を語っています。

    【新改訳改訂第3版】

    6:2 ああ、私の苦悶の重さが量られ、私の災害も共にはかりにかけられたら。
    6:3 それはきっと海の砂よりも重かろう。だから私のことばが激しかったのだ。
    6:4 全能者の矢が私に刺さり、私のたましいがその毒を飲み、
    神の脅かしが私に備えられている。
    6:5 野ろばは若草の上で鳴くだろうか。牛は飼葉の上でうなるだろうか。
    6:6 味のない物は塩がなくて食べられようか。卵のしろみに味があろうか。
    6:7 私はそんなものに触れるまい。それは私には腐った食物のようだ。

  • この箇所は重要ですが、読むだけでは難しいところです。しかし、この箇所にこそヨブが一番言いたいことが記されているように思います。
    苦悩の重さ.JPG
  • ヨブは、もし自分が負っている苦悩と災いの重さと海の砂の重さと比べたなら、図のように、自分の苦悩と災いの方が重いと言っています。その重さに耐えかねて、つい性急に出でしまった言葉だったと説明しています。
  • ちなみに、ヨブが経験した「苦悶」という言葉は「カアス」(כַּעַס)で、「憤り」「心のいらだち」「怒り」「悲しみ」「憂い」を意味し、ヨブの心の中の内面的ないらだちを表わしています。また、「災害」と訳された「ハッヴァー」(הַוָּה)は、「破滅」「悪事」「欲望」とも訳されますが、目に見える外面的な災いを意味します。これらの内的苦悩と外的災いが、ヨブをして激しいうめき声をあげさせたのです。しかし重要なのは、ヨブにこの声をもたらした原因です。エリファズの言う苦難の原因は「人間の罪」としていますが、ヨブの苦難の原因は「神によるもの」として、エリファズとは決定的に異なっていることです。
  • 苦難の原因が「神によるもの」ということを、ヨブは次のように表現しています。

    【新改訳改訂第3版】
    6章4節
    全能者の矢が私に刺さり、
    私のたましいがその毒を飲み、
    神の脅かしが私に備えられている。

    5節 野ろばは若草の上で鳴くだろうか。牛は飼葉の上でうなるだろうか。
    6節 味のない物は塩がなくて食べられようか。卵のしろみに味があろうか。
    7節 私はそんなものに触れるまい。それは私には腐った食物のようだ。

  • つまり、ここでヨブが語っていることは「神が毒矢を通して自分を(直接的に)脅かしている」ということです。つまり、罪の当然の結果としてではなく、直接的に、神の毒矢が刺さっているとしています。とすれば、「なぜ、この自分に」ということがヨブの苦悶するところなのです。
  • 続いて、ヨブは「野ろばは若草の上で泣くだろうか。牛は飼葉の上でうなるだろうか。」と言っています。ここでの比喩が言わんとしていることは何でしょうか。十分に配慮と保護が受けられているならば、「泣いたり、うなったり」することはあり得ない。つまり、理由が明白である苦悶であるならば、甘受することができる。しかし、「味のない物は塩がなくて食べられようか」「卵のしろみに味があろうか」との表現は、意味の明白でない災いは甘受できないということを表現しています。それはヨブにとっては「腐った食物」のようで、それに触れたくも、受け入れることもできないという意味なのです。
  • ヨブの訴えは24節で頂点に達します。

    【新改訳改訂第3版】
    6:24 私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。
    私がどんなあやまちを犯したか、私に悟らせよ。


2.絶え間ない苦痛と空しさのゆえに神に問いかけるヨブ(7章)

  • 7章19~21節に「いつまで」(「カンマー」כַּמָּה)、「なぜ」(「ラーマー」לָמָה)、「どうして」(「マー」מָה)と神に問いかけるヨブの姿があります。新改訳では「いつまであなたは・・・されないのです」「・・ないのです」「なぜ・・されるのです」「・・なければならないのです」「どうして・・です」と訳されています。
  • 詩篇にも同様に「なぜ」「どうして」「いつまで」といった神への訴えかけが見られます。しかもその訴えは、神が立ち上ってくれて、現在の苦境から解放してくれるよう訴える嘆願の中で使われています。それゆえ、解放とは救いであり、勝利であり、いやしという明確な目的があります。ところが、ヨブの場合にはそうしたことを求める訴えではなく、苦しみが続くことに対して、神が「なぜ」「どうして」「いつまで」関与しようとしておられるのかという訴えです。「いつまで」この私に関与し、捨て置かれることをしないのか。「なぜ」私にいつまでも関与され、標的にとされるのか。もし自分が罪を犯したというならば「どうして」ゆるしてくださらないのか。・・・ヨブの訴えはいよいよ迫真に満ちて来ています。ヨブは余命いくばくもないことを予感しつつも、彼の意識はますます研ぎ澄まされて、神に問いかけています。
  • ヨブにとって、終わることのない苦しみが生きる空しさとして受けとめられ、死を希求しています。7章3節にはこう記されています。

    【新改訳改訂第3版】
    私にはむなしい月々が割り当てられ、
    苦しみの夜が定められている。

  • このフレーズは、同義的並行法で、「むなしい月々が割り当てられた」ことと「苦しみの夜が定められた」こと(いずれも原文では完了形です)が同義です。「むなしい」と訳された原語は「シャーヴェー」(שָׁוְא)で、動詞の「シャーアー」(שָׁאָה)がその語源となっています。つまり、自分の人生は「破壊され、荒れ果て、滅びる」という意味で、何の目的もなく、充実感もなく、生きる意欲が失われた日々を送ることを示唆しています。まさに、生きる屍状態、そのことがヨブにとって「苦しみ」「悩み」(「アーマール」עָמָל)なのです。この「アーマール」はヨセフが「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせたから」として自分の長子をマナセと名づけましたが、ここの「労苦」と訳されている語彙が「アーマール」です。ヨセフの生涯を知っている者であれば、彼が通ったその労苦がいかばかりのものであったか、予想がつくはずです。
  • ヨブの苦しみは、自分には決してもう回復の見込みがなく、むなしい苦しみが自分の生涯に定められたと受け止めていることなのです。そして神がそのことに答えることなく、沈黙し、監視しているように思えている事なのです。それゆえ、7章17節の「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは」というフレーズは詩篇8篇にあるダビデの賛歌にあるものと似ています(全く同じではありません)が、意味合いが全く異なり、皮肉的な意味でー「自分に心を留めても、あなた(神)にとって何の得にもなりませんよ。私にかまわないでください」ーという意味合いで語られているのです。


2014.5.14/23


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